時は中国の戦国時代、秦が史上初めての天下統一に向けて着々と国力を整えていた。秦の始皇帝政は幼き頃、趙の人質となり、そこには燕の太子丹もともに人質となっていた。政の父親は、大商人呂不韋の支援のもとにやがて故国秦に帰り太子となることができ、王位を継ぐ。呂不韋は秦の宰相に任じられ権力をふるう。やがて父王が死ぬと、政はいつまでもつきまとう人質時代の鬱屈とした心理や、自分の出生の秘密に悩まされながら、やがて凶暴な王となっていく。燕の太子丹は、今度は秦に人質となっていたが、秦国の屈辱的な待遇に憤り燕に戻る。始皇帝の天下統一の野望は激しさを増し、燕は秦の軍事圧力のもとに危急に陥る。それを憂えた丹は、不屈のテロリスト荊軻を得て、領土を献上すると偽らせ秦王暗殺の密命を持たせ荊軻を秦に派遣する。秦王を追い詰めた荊軻であったが、事は成就せず、荊軻は殺され、やがて燕も秦に滅ぼされ、やがて天下は始皇帝のもとに統一される。
以上のような史実を踏まえながら、凶暴な始皇帝の精神がどのように出来上がったのか、心理分析を試み、呂不韋と政の母親の関係などを描くことにより、物語を生彩豊かなものとし、新しい歴史小説の方向を目指した。
ここに、小説の冒頭部分を掲載します。これを読み、興味を持ってくださり。この本をお手に取っていただければ幸いです。
第一部 この男荊軻
「俺は何をしたいのだろう」
男は歩きながら考えた。この年齢(とし)になっても芽が出ない。もう三十を越えた。大丈夫としての気概は人一倍持っているつもりだ。だが、立ち止まって溜め息をつけば、その気概もどこかへ漏れていってしまいそうだ。やはり歩こう。
「考えても見ろ、別に何もして来なかったわけじゃない。金が手に入れば書物に投じ、学問も積んできた。諸国を遍歴(へめぐ)っては各地の名士と誼(よしみ)を結んできた。そして、何より剣の修行に心を入れてきた。だが…」
この男、荊軻(けいか)という。戦国乱世の中国に生を受け、諸侯たちの果てしのない戦に疲れ行く民草どもの窮状を目の当たりにしている。
「だが、俺は、あの蘇秦や張儀のような口先だけの輩となり、諸侯の間を渡り歩いて巨万の富と名誉を手に入れたいというのだろうか。聞くところによると、張儀は諸侯の間で疎んじられ天下に己が身を入れるところがなくなったとき、心配した女房に向かってこう言ったそうだ。「どうだ、おれの舌はあるか。これさえあればおれの身は死んではいない。お前にもいつかいい目を見させてやる」」
荊軻は歩きながら己が手を見た。握りしめそして開いたその掌を見て、あのときの屈辱を思い出した。
荊軻、その祖はもと齊の人で、衛国へと移り住んだ。家は衛国で家業を営み、周りからはそれなりに一目置かれていた。衛国は小国なれど、その国君は広く天下の賢者の助言を求めているという触れ込みを若き荊軻は信じ、ある日城門をくぐった。だが、衛兵に追い返されること三度。衛君に是非、献策するのだと何とか頑張りやっと通された先に、退屈そうな老いぼれ役人がいて、某(それがし)が話を承りましょうという。いや、君に直接目通りして秘策を献じたいのだと、いくら軻がわめいても脅しても、これが規則ですからと、老いぼれ役人めはしらじらとしている。会わせないのなら上書させろというと、また、とぼけてそれではその上書、某が預かりましょうなどと言う。荊軻は、お前なぞ信用できるか、もっと責任のあるものを出せと怒ると、某は何々という役職でござって、某が上書の形式と内容を改める責任ある地位にある者にござる、云々とほざく。軻は散々毒づいて、そこらにあった机や椅子を蹴散らかし、帰ってきた。諸侯は賢者にへりくだり礼を尽くすなどと世の中で言われているが、所詮、訳のわからぬ愚か者ばかりなのだ。案の定、衛国は秦が魏に仕掛けた戦のとばっちりを受け、領地を移され、今や索漠たる有様なのも自業自得というものである。だが荊軻は己が献策が受け付けられなかった腹いせに、ざまを見ろという気にもならなかった。もしそんな気持ちが湧いたのなら、自分もあの愚かな衛君と同列になる。荊軻はもっと高いところを見ていた。
「私怨を晴らすのは易いことだ。だが、そんなつまらぬ私怨に拘(かか)ずらって何になる。俺はもっと大きなもののために動かねばならぬ」
手を開いて、また握ってみる。
「そうだ、俺はもっと強くなりたい。人としてもっと強くなりたいのだ」
荊軻の一家もまた騒乱にまぎれて中原を去り、北方の燕国へと流れきていた。その都、薊(けい)は中原から遠く隔たっているものの、さすがに一国の都、城塁に囲まれた大衙(たいが)が通り、市は殷賑を極めていた。荊軻の一家はここでも誠実に家業に励み、地歩を得つつあった。中華世界を経巡り、いま零落の荊軻が帰ろうとしていたのは、この燕国に住む親元であった。功成り名を遂げ錦を飾るわけでもなく、何の面目があって親に会えようかという気もしたが、だがこれといった当て途(あてど)もなく、足は自然とそちらへ向かうのであった。
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