「はじめに」より
「え? お前が、ニーチェ?」「ニーチェなんか読んでたんだ」「ニーチェなんて、社会学に関係あるの?」「似合わねえなあ」「どうしちゃったの?」……初めて本を出すことがうれしくてこの電子本のことを漏らしたところ、様々な反応をもらいました。社会学とニーチェ……確かに、「なぜ?」と思われてもしかたないかな。
私はこれまで社会学を勉強してきました。しかし、実のところ、私は人間嫌いで組織嫌いです。昔からの性癖ですが、つまり社会性だか社交性に乏しく、一時期はやった言葉で言えばKYおやじです。こんな私がそもそも「社会学」という学問に手を染めるなど学生時代は想像すらできませんでした。社会学科などというところに入学してしまい、新明正道先生という偉大な師匠に出会ったのが運のつきだったのです。
ただ、歳をとるうちに次第に開き直ってきて、「社会の常識を疑うのが社会学ってなら、社会学の常識を疑うのも社会学じゃね?」という屁理屈が頭をもたげてきました。「裏」から、つまり「極私」から突き破ってみようか……。
社会学の「常識外れ」は、「方法的自分主義」という妄想・妄論に行き着きました。個人主義、利己主義(egoism)、egotism、リベラル、リバタリアン……。どれもしっくりこないので、素人っぽくて子どもっぽいですが、「自分主義」というのが合っているのかな。「まともな」「専門の」先生方には大変失礼でしょうが、落ちこぼれの独り言です。どうかご海容を。
社会学とニーチェ……確かに、両者は遠く隔たっているように見えます。私のまわりの社会学者はいわゆる「リベラル」な人が多く、平和と公平を重んじ、理性と熟議に基づく政治社会を構想しています。私自身もおおよそ、そういう教育を受けてきました。くわえて、私の勉強してきたのが社会システム理論と方法論(例えばタルコット・パーソンズ)などという無趣味極まりない分野ですので、ますますニーチェからは遠い人間ですね。むしろ対極の立ち位置にいるように感じてきました。
しかし、というか、だからこそ、私にとってニーチェは一種の「平衡錘」のような働きを長い間してくれました。それは、「極私」の世界として、私の日々のリベラル疲れを時々は癒してくれます。ただ、歳を重ねるうち、次第に自分の中のニーチェ的部分とパーソンズ的部分とが相互に肥大化してきました。私の「本音」の部分、つまりニーチェ的部分が暴走を始めたのです。私の脳髄の中で捻じ曲げられたニーチェはキーボードに漏れだして、電子本になりました。『ツァラトゥストラ』の扉の言葉ではないけれど、こんなのは「誰のためでもない本」かもしれません。
この頃「超訳」とかが出てニーチェの人気が高まっているようにも見えます。学生時代から親しんできたニーチェについてようやく文章らしきものを書く気になったわけですが、ニーチェの研究者でもないし、ドイツ文学者でも哲学者でもないので、ここでは自分のニーチェ像を彼の箴言・片言からでっちあげることになりそうです。
「目次」
第一部 妄訳編 愛のニーチェ
一 星をめぐるニーチェ
二 ニーチェの愛と友情
三 ルー・ザロメ
四 妹エリーザベト
五 母親と友人たち
第二部 妄論編 ニーチェ・プラス・アルファ
一 弱者の哲学?
二 ニーチェは今も生きている
三 仏教とニーチェ
四 ニーチェとワーグナー、そしてフルトヴェングラー
五 「B層」って俺のこと?
六 ツァラトゥストラの「サル」
七 自分主義の勧め
第三部 放浪編 ジンメル、ルソー、デモクラシー
一 孫引きの快楽
二 勤め人は似合わない?
三 ジンメル――ザ・ヴェルヴェット・マインド
四 子育ては神秘
五 ネット群衆――知らない人がいっばいいる
六 「一般意志」って、デスクトップ・デモクラシー?
七 デモクラシー・オンライン?
八 武士道から市民道へ
九 運命を乗り越えて
十 正しく怒る楽しさ
第四部 自立編 ニーチェだって超えちゃいましょう
一 強いは弱い、弱いは強い
二 毒は毒で制する
三 自分主義の擁護――ニーチェ対ルソー
参考文献および映像資料
「著者略歴」
Dr.オグリ、本名は大黒正伸。社会学博士。行政書士の資格も持つ。アイヌ民族の調査で専門社会調査士の資格も得る。主な著書は、『ウタリ社会と福祉コミュニティ―現代アイヌ民族をめぐる諸問題』(共編著)、『アイヌ民族とエスニシティの社会学』(共著)、『システムとメディアの社会学』(共編著)、『シンボルとコミュニケーションの社会学』(共編著)など。
AITOMOOSOONONIICHE (Japanese Edition)
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