We love eBooks
    Baixar subetenonazowamiyamotomusashioyakatakasetudekaiketusuru (Japanese Edition) pdf, epub, eBook
    Editora

    subetenonazowamiyamotomusashioyakatakasetudekaiketusuru (Japanese Edition)

    Por kamikouchi jin

    Sobre

    宮本武蔵の名前は吉川英治の小説で広く世の中に知られることになりました。しかし武蔵の実像を示す証拠はあまりありません。武蔵については

    ・生まれは播磨か美作か
    ・関ヶ原の戦いは西軍だったのか
    ・武蔵と戦った吉岡憲法は誰なのか
    ・小倉にいた武蔵の父は平田無二なのか

    などなどの議論が絶えず、実際の武蔵像は明確にはなっていません。

    吉川英治の小説『宮本武蔵』の中で武蔵が吉岡一門から果たし状を受け取るのは、六条柳町の遊郭でした。六条三筋町ともいいます。現在の地名で言うと、下京区東魚屋町、上柳町あたりになります。烏丸通りの西にある東本願寺の北側に位置します。
    遊郭の外に出た武蔵を待ち受けていた吉岡一門はその場で武蔵と戦おうとしますが、
     
    「——板倉がくるぞっ」
     
    という声に我にかえります。声を発したのは佐々木小次郎でした。彼は仲裁に入る振りをして、吉岡一門と武蔵の戦いを派手にしてやろうと企みます。その結果、果たし合いの約定をさせます。吉岡一門と武蔵は明後日の朝、洛北の一乗寺下り松で果たし合うことになります。一乗寺は叡山の麓とも言える場所で洛外にあります。洛外で仕合うのは、京都所司代板倉伊賀守勝重の目を忍ぶためです。

    吉岡家は足利将軍家の剣術師範ですが、時代は徳川に移り、吉岡家といえども京都所司代板倉勝重の目は恐れるものでした。京都は豊臣秀頼の大坂に近く、内裏もあるので洛中での狼藉は厳しく精査されるに違いありません。

    吉岡家の京八流はすでに剣術流儀としては確乎たる地位を築いていましたから、田舎からでてきた若い牢人と対決する必要はありません。小説の中では当主不在の道場で、武蔵を闇討ちにして亡き者にしようする吉岡の弟子たちが描かれますが、板倉勝重の目が光っているのであれば、そういう道場破りの牢人はすべて門前払いすればいいのです。当時の吉岡道場が道場破りをしようとする牢人を受け入れたかどうかははっきりとした資料はありませんが、紹介状もない牢人と立ち会うメリットはまったくありません。

    小説の中では、吉岡道場を訪れた武蔵があまりに大言壮語を叩くので弟子達が少し懲らしめてやろうと思って立ち会うことに端を発し、武蔵と吉岡一門の因縁が生じます。ところが武蔵と立ち会うと弟子たちは誰もかなわないばかりか、立ち会った六名のうち二名が死んでしまうという有様。弟子達はこのまま見過ごして帰すわけにはいかず、闇討ちして武蔵を抹殺しようとします。

    弟子として吉岡の家名を守るのであれば、どのようなものが訪ねてきても当主の許可なく立ち会うことは普通はありません。武者修行の牢人であればなおさらです。ここでは吉岡の弟子達の増上慢さを強調して描かれていますが、いくら足利幕府が滅んだとしても、軽忽過ぎる振る舞いではないでしょうか。すでに剣術師範として権門だった吉岡道場と武蔵がどのようにして果たし合いをすることになったのかは、吉川英治にとっても頭の痛い問題だったかもしれません。

    しかし吉岡清十郎が武蔵と立ち会ったのは、偶然ではなく必然だったと考えることはできないでしょうか。吉岡清十郎は宮本武蔵の名前を聞いた時、立ち会うべき理由があったのです。だからこそ、吉岡道場は吉岡一門をかけて武蔵を抹殺しようとしたと考える方が自然です。

    武蔵はもともと吉岡と対決するつもりは無かったのかもしれません。『小倉碑文』には
     
    請決雌雄被家之嗣清十郎
     
    とあります。この文には「被」という助動詞が含まれています。「被」は受け身を表す助動詞なので、「吉岡憲法後嗣の清十郎に雌雄を決する事を請われた」という意味にとれます。もしそうだとすると、決闘を申し込んだのは、宮本武蔵ではなく、吉岡清十郎ということになります。

    『小倉碑文』では宮本武蔵が吉岡と三度戦い勝った後、武蔵の父である新免無二が足利義昭の立ち会いのもと三度に限り勝負して勝ったという記述が続きます。そして足利義昭は新免無二に「日下無双兵法術者」の称号を与えます。

    武蔵はもともと吉川一門と戦うつもりだったのではなく、武者修行の廻国の免状が欲しかっただけで吉岡の門を叩いたのに、かつての父親の仕合を引き合いに出されて果たし合うことを求められたのではないでしょうか。
     
    ………………………………………………
    「お初にお目にかかる。作州牢人、宮本弁之助でござる。武者修行の廻国のため免状を頂戴したく参上仕った。ご配慮のほど、よろしくお願い致す」
    「——作州の宮本氏と申されるか。いましばらく待たれよ」
    取り次ぎのものは弁之助の名前を確認すると、道場の奥に消えた。しばらくすると、初老の男が現れた。
    「お待たせ致したな。儂は三代目の吉岡憲法でござる。つかぬ事をお聞きするが、宮本氏のお父上は宮本武蔵という兵法家であろうか」
    「……」
    「かつて足利義昭公が京都におわしたとき、儂は上様の前で宮本武蔵という作州の兵法家と仕合をした事があった。一度は儂が勝ち、二度目は儂の負けであった。三度にもう一度儂と戦った。儂の太刀が一瞬早く、儂は勝ったと思った。しかし上様は宮本氏の方が早かったという。上様は宮本武蔵の勝ちとしたのよ」
    「……」
    「宮本武蔵は貴殿の縁者であろうか」
    「——やはり、遺恨がこざるか。されば、宮本武蔵は拙者の父でござる」
    「なにっー。やはり宮本武蔵の縁者か」憲法の背後にいた門人が鋭く声を上げた。
    「十郎左衛門、客人に失礼であろう。控えなさい」
    「——むぅ。しかし父は父、拙者は拙者でござる。父への遺恨を拙者にあてがわれるのは筋が通らんのではございますか」
    「わかっておる。それはわかっておる。しかし宮本氏とこの吉岡、まんざら縁がないわけではござらん。いかがであろう。一度御手合わせいただきたくことはできまいか」
    憲法の眼光が鋭くなり、弁之助をねめつける。
    「儂ではない。息子の清十郎が御相手致す。いかがであろう」
     
    「宮本武蔵」という名前はもともと新免無二が若いときに名乗っていたものです。そちに「宮本無二」とし、黒田氏の家臣になったときは「新免無二」を名乗るようになったのでしょう。「武蔵」の名前は弁之助にとっては父の通称です。このころは父親の通称を嫡男が継ぐ事は珍しくなく、弁之助も武者修行に旅立つときに「武蔵」に改名したかもしれません。
    ………………………………………………
     
    宮本武蔵の父新免無二もまた宮本武蔵であったとすると、武蔵を巡る資料の多くはジグソーを完成させるように確固とした宮本武蔵像を得ることができるのです。宮本武蔵は二人いて、親子だったのです。

    本書では平田将監の子孫が平田武仁であり、平田武仁の子が後の新免無二であり若年のときに宮本武蔵を名乗っていたことを証明します。新免無二もまた宮本武蔵同様の戦国末期の有名な剣術家だったのです。


    Baixar eBook Link atualizado em 2017
    Talvez você seja redirecionado para outro site

    eBooks por kamikouchi jin

    Página do autor

    Relacionados com esse eBook

    Navegar por coleções