アガペー
涼子が家に戻ってみると、三年ぶりに来訪していた古賀の伯母が玄関に出迎えて「お帰りなさい涼子さん。あらステキなお嬢さんになられたわね」
懐かしそうな眼差しを向けてそう言った。
「いらっしゃいませ伯母さま、元気そうでよかったわっ」
そう言う涼子は、顔艶のいい笑顔の伯母が懐かしく思えていた。
「それならいいんだけれども、以前から坐骨神経痛があって歩くのがしんどかったわね。それで拓也(涼子の兄)さんが交通事故に遭って入院されたと聞かされてはいたんだけれど、そんな訳で見舞うことが出来ずにいたんだわさ。でも、このところは少し歩るけるようになって、今日やっとお見舞いに行ってこられたわね」
伯母はそう言いながら玄関脇にある六十平米程の応接間の扉を開け入って、その中央に置かれたダーク・ブラウン色の重厚なソファに、深々と腰を沈め込む。
拓也は三ヶ月ほど前に恵比寿駅前交差点の青信号を歩行して横断中に、酒気帯運転手のトラックに巻き込まれて坐骨損傷で入院を余儀なくされていた。
「今日、私も見舞いに行って来ましたから、伯母様のことは兄から聞きましたのよ。いろいろご心配をお掛けして、本当にご免なさい」
涼子は伯母に続いて応接間に入り、ソファに並び坐ってそう言った。
「あらっ、一足違いだったわね。それにしても拓也さんの手脚が不自由なままになってしまうだなんて、不憫で慰めの言葉が見つからなかったわさ」
「伯母様っ、兄はきっと治ります」
兄の再起を信じて疑わない涼子には、治らないと決め付けているかのような伯母の言動が不愉快だった。
「そうだったわ、迂闊な言い方をして本当にご免なさいよ。さっきも弟(涼子の父、康次郎)にバカなことを言って怒らせてしまったし、どうかしているわさ」
「えっ、父と喧嘩っ?」
「いやねっ……」
伯母が話すには、静恵(涼子の母)が拓也を身篭った時期と重なって子宮体癌だと診断されたにも拘わらず、それでも頑強に治療を拒み続けて命と引き換える覚悟で拓也を産んだ静恵の心痛を察しているが、あっけらかんとしている弟のふやけた表情を見ると、つい八つ当たりしてしまうとのことだった。
「そうなんだ、伯母様」
「だから、さっき弟に何のかんのと噛み付いてしまったんだけど、むっとした表情でどこに行くのか、荒々しく玄関ドアを『バタン』と大きな音を立てて閉めてさ、外に出ていっちまったわね」
気丈にそう言う伯母は、後悔というよりも誇らしげな表情のようでもあった。
「兄のことを心配しているのは、父も母と同じではないかしら」
涼子は、男親と女親の愛情表現が違うのは当たり前ではないかと思っていた。
「解ってはいるんだけど、性分で厭味を言いたくなるんだわさ」
「……伯母様っ、母が兄さんを出産した時、母が『子宮体癌だった』と言ったけど、出産後には癌の摘出手術を受けたのかしら。それに私の出産時はどうだったんですか?」
涼子は母が癌だったなどとは、これまで一度として聞かされたことはなかっただけに驚きで、それに自分の出産時のことも気になりだして、伯母にそう訊いた。
「ああ、どうだったかしらねえ……」
伯母は空々しい言い方に変えた。
その時、家に戻って来た静恵が応接間のドアを開けると顔を突き出して「帰っていたのね涼子。二度とあんなバカな真似はしないでちょうだい。心配で一睡も出来なかったんだから」
静恵は涼子をヒステリックな声でそう怒鳴ったが、伯母様の居る手前、すぐに笑顔を浮かべて見せた。
「御免なさい」
「久し振りに古賀の伯母様がいらっして下さったから、今夜はご馳走しょうと買い物をしてきたのよ。ですから、涼子にも料理を手伝ってもらうわよっ」
静恵は買い物袋を手にぶら下げながらそう言って、キッチンに向かって行った。
「静恵さんは何を怒っているのさっ?」
伯母は涼子に興味有りげに訊いた。
「大学テニス部の私の女性友達が関東大会のシングル部で優勝したの。それで、お友達の家でする祝賀パーティに私も招かれて、ほんの少しお酒を飲んだだけで、気分が悪くなってしまったわっ」
「涼子さんは、お酒が合わない体質なのよ。よそ様で体調を崩してしまっては、さぞかし困ったでしょう」
「お友達が『泊まって行った方がいい』と言ってくれたから、母に電話をしてみたんだけど『その喋り方は少量のお酒ではないはずねっ。そんな乱れた姿で他人の家に泊まるなんてことは、絶対に許しませんから』だって。それでも勝手に泊まってしまったわ。だから、今日は直接家には戻りにくいし、病院の兄を先に見舞いに行って、気を紛らわせて来たんです」
涼子は不満げな表情でそう言い終えると笑顔を見せて首を竦め、舌をペロっと出した後、静恵のいる台所へ小走りに向かって行った。
「お父様はどこかへ出かけた見たいだけど、どこへ行ったのかしらねえ。貴女、知っている?」
キッチンにいる静恵が、涼子の顔を見るなりそう訊いた。
「私が戻った時には、伯母さましかいなかったわよっ」
涼子は伯母から聞いた話を隠す気は無かったが、伯母の厭味ごとに耐え切れずに父は何処かへ出かけてしまったなどと、敢えて母に言うこともないと思っていた。
「そう。このところ日曜日でもゴルフに出かけなくなったお父様ったら、気晴らしにパチンコを覚えたみたいなの。当人は家族に知られていないと思い込んでいるみたいだし、知らない振りをしてあげてるの。でも、けちで飽き性でしょう、だから、何時ものように、少し負ければ帰って来るでしょうよ。では涼子、お野菜を洗って刻んで頂戴」
静恵はそういって、買い物袋の中から赤いピーマンを四つ取り出して涼子に手渡した。更に「お父様ったら伯母様と言い争いしたんでしょうよ、きっと。昔っから顔を合わせると喧嘩する犬猿の仲だったんだから、久しぶりに会ったところで一向に変わっちゃいない二人なのよ」と言う。
来客や父の居る時の静恵と涼子の間でも、一見、優しく接しているように見えるのだが、普段、二人っきりで居る時の会話はギクシャクしがちであって、挙句は口喧嘩になることが多かった事を思い出しながらも、伯母と父の間のギクシャクした葛藤もあったのかと知った。
「涼子、ぼんやり突っ立っていないで、早く手伝いなさいな」
「…………」
涼子は「お母さん」と声を掛けようとするのだが、躊躇する。だが、思い直すと再び静恵の横顔を凝視して「母さん、兄さんを出産する時期に子宮癌だったのね。私、知らなかったから本当に驚いてるわ」
涼子は、さほど深刻な問題と捉えていた訳ではないが、それでも、心の中には言い知れぬ妖雲が漂いだしていた自覚があった。見る見る顔が赤らむ静恵だが、調理の手を休めると荒々しくエプロンを脱ぎ捨てた。
「古賀の伯母様ねっ」
静恵は語気を荒くした。
「あらっ、別に悪いことを聴かされた訳ではないんだし、そんな言い方しなくっても」
静恵は涼子の言葉を聞き流しているかのように、そっぽを向けて、しばらく押し黙ったまま立ち尽くしていたのだが、突如、血相を変えてキッチンから飛び出すと、応接間に入って行った。
「この家では拓也の問題で家族は忍び難い思いをしていますのに、涼子に何を聴かしたんですの?。この上に余計な波風を立てられては、それこそ我が家は崩壊してしまいますの」
眉間に青筋をたてた静恵から、けんもほろろに言われた伯母は、詫び言葉もそこそこに神経痛とは思わせない達者な足取りで、そそくさと藤倉家から立ち去った。
誰もいなくなった応接間のドアを閉じて室内に篭ってしまった静恵の動揺振りに涼子は呆気に取られはしたが、不可解さと後悔が入り交じり、心は萎えた。
間もなく家に戻ってきた康次郎の声を聴きつけた静恵は、何食わぬ顔つきで応接間から出て、玄関口で康次郎を出迎えた。
「姉(伯母)は帰ったのかい」
康次郎は姉の履物が玄関になかったことで、静恵にそう訊いた。
「ええ、さっき帰りましたんですよ」
「食事もしないでかい?」
「ええ」
「子供のころからオテンバのあれ(伯母)が苦手だよ。未だに顔を合わすと衝突してしまうんだ。さっきもそんな事が有ったから帰ってしまったんだろうけど」
「…………」
静恵は涼子と顔を見合わせて、言葉を詰まらせた。
「ところで涼子、友達の家であったとしてもだよ、淫らに酔って恥をさらすなんてことは学生の分際で二度とあってはならんことだっ」
康次郎は静恵の傍らに突っ立っている涼子に一瞥を投げ、そう一喝をした。
「もう大人なのよ。お酒ぐらい皆飲んでるわよ。チョッピリ飲んだお酒で酔ってしまったの。飲みなれない私だけだったんだから。それでも淫らになんて酔わなかったわよ。でも、前もって話しておかなかったことは謝るわ。ご免なさぁい」
涼子の言葉に安堵した康次郎は、パチンコの負けも重なった浮かない顔が綻んだ。だが、その後に食卓を囲んだ静恵と涼子の白けた雰囲気を感じ取る康次郎は「今日はどうも、二人の様子が変だ。何か言い争いでもしたというのかね。それとも拓也に何か?」
そう訊きながら、恐る恐る静恵と涼子の伏せ顏を覗き込む。
「……今日、伯母様と私は、別々だったけど兄さんを見舞いに病院に行って来たんだわ。けど、兄さんは相変わらず強がりを言っていただけよ。でも知りたくて、担当医には会って見たわ」
「……それで、拓也にその結果を話したのかね」
困惑顔の静恵と康次郎は、拓也のためを思い重度な症状のことは隠し通していたのだが、涼子から拓也に話されてしまったのかと気
Agapee (bunko) (Japanese Edition)
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