京都をよりディープに知って楽しむための京都クイズ800問。「京都の寺社」、「京都の祭」、「京都の芸術」、「京都の建築」、「京都の暮らし」、「京の新選組対勤王の志士」、「京言葉」、「京料理と京の酒」、「京菓子」、「比叡山」のジャンル別。京都西陣に住んでKYOTOのありとあらゆる分野を隅から隅まで取材したジャーナリストが送る京都クイズ800問。構想から著述に十数年、36万字、四百字詰め原稿用紙換算で900枚の大作。
なお、本書は当初『京都四択クイズ 780問』としていた2013年版を、新たに比叡山の項目20問を加えて全800問として『京都クイズ 800問』と改題した2014年版である。比叡山は京都府京都市北東部と滋賀県大津市西部とにまたがる山であるが、現在滋賀県にその中心が属するからといって多くの京都の観光ガイドブックに載っていない状況は筆者にとっては不適切に思われる。それはなぜならば、歴史上、比叡山は京都から切っても切れない深いつながりが政治的にも文化的にもあったからである。よって本書では特別に比叡山の項を新しい版では付加することとした次第である。
本文より
京都の寺社>中京区
【問6】神泉苑(しんせんえん)(中京区御池(おいけ)神泉苑(しんせんえん)東入ル)は、別名、「ひでんさん」と呼ばれている。なぜそう呼ばれるようになったか。
1:きらめく電光の飛電(ひでん)から名がついた。
2:秘教を奉じて秘伝(ひでん)としていたことから名がついた。
3:ただ単に「しんせんえん」が「ひでん」と訛(なま)った。
4:貧窮者に恵みを施す悲田(ひでん)から名がついた。
答え:3の「ただ単に「しんせんえん」が「ひでん」と訛(なま)った」が正しい。
近所の人は神泉苑を「ひでんさん」と呼んでいる。これは、「しんせんえん」が「ひでん」になまり、それに敬称の「さん」をつけたものだとされている。だから、「定説」によれば、3が正解なのである。
しかし筆者は自分でこの問題を作りながら、何か背筋がぞくぞくするような感を禁じえなかった。筆者が「ウソ」として考え出した1と2と3が、あながち嘘とも思えなく感じたからであり、考えれば考えるほど、そうなのではないかと思えてきたのだ。
まず、1であるが、空に長引いて光る「飛電」は竜神の姿ではないか。空にきらめく電光は、雨の前兆である。神泉苑の池には、八二四年(天長一年)の大旱魃(だいかんばつ)のおりに恵みの雨を降らせた水の神様の竜神が住んでいたと伝わる。大旱魃の際、東寺(とうじ)の空海(弘法大師)と西寺(さいじ)(今は無い)の守敏(しゅびん)が雨乞いの法力(ほうりき)争いをした。結局、空海が竜神を呼ぴ寄せて雨をもたらした。その後、数々の高僧が修行に訪れ、祈雨の霊場としても知られるようになった。彼らが使った法力は、密教の(エソテリックな)祈祷(きとう)によるものであって秘教である。この意味で、2の「秘伝」につながる。
そして、彼らが法力で降らせた雨は旱魃で飢えていた貧窮者を救う。その意味で神泉苑は4の「悲田(ひでん)」だったのではないか。「悲田」とは仏語で貧窮者のことで、貧窮者の救済施設「悲田院」の略語でもある。
かつて神泉苑は広大で、二条と三条大路の間の南北四町、大宮と壬生(みぶ)大路の間の東西二町を占めたという。今はその片鱗を残すのみだが、朱塗りの橋が映るまばゆい水面(みなも)を見ていると、空海と守敏の思いの片鱗もいまだにこの水底(みなそこ)にゆらめいているのではないかと筆者は感じるのだ。
ちなみに、「ひぜんさん」とも言うが、かつて皮癬(ひぜん・皮膚病)が流行(はや)ったときに、神泉苑の祈祷でその流行を鎮め、治癒したことにちなむという説もある。
京都の寺社>左京区
【問52】御辰稲荷(おたついなり)(聖護院(しょうごいん))は、江戸中期、東山天皇の側室、新祟賢門院の創祀(そうし)で、門院の夢枕にたった白狐(しろぎつね)が、「御所の辰(たつ)の方角の森に、私を祀(まつ)れ」と告げたので、言う通りに祠(ほこら)を建てたのだという。「辰(たつ)」とは、次のうちのどの方角か。
1:西北西
2:東北東
3:西南西
4:東南東
答え:4の東南東が正しい。
昔の人は、十二支(干支・えと)で方角を表した。三百六十度を十二支で割るから、ひとつの干支が三十度になる。「辰(たつ)」は、東南東である。巳(み)は南南東で、辰巳(たつみ)と言えば、東南東と南南東をあわせた東南となる。(角度的には三十度の二倍の六十度となる。)辰巳は、一字で書くと、「巽」となる。
昔の人は、方角だけでなく、時刻も十二支で表した。一日二十四時間を十二支で割るから、一つの干支が二時間である。子(ね)は零(0)時で、亥(い)は二十二時だった。
御辰稲荷(左京区聖護院(しょうごいん))の「辰(たつ)」は、上達の「達(たつ)」に通じることから、芸事上達祈願の御利益があるとされ、芸大受験生がよく合格祈願に来るという。
京都の芸術
【問10】京都の花街(かがい)のお茶屋での舞妓さんや芸妓さんとの遊びには、独特の遊び方がある。
次にあげる言葉で、お茶屋遊びにはないものがひとつだけある。それはどれか。
1:「とらとら」
2:「こんぴらふねふね(金毘羅舟々)」
3:「むぎつんで(麦つんで)」
4:「くりくりぼうず(くりくり坊主)」
答え:4の「くりくりぼうず」が間違っている。
「くりくりぼうず」は、花街の遊びではない。(「くりくり坊主」とは、髪を全部剃った頭のこと。)
「とらとら」は一種のパントマイムじゃんけん。対戦者のお互いの姿が見えないように真ん中に衝立(ついたて)や屏風を置いて、ジャンケンを身振りで行う。お囃子に合わせて両者とも衝立の横に出て勝敗が決するが、両者の姿は見物人からは始めからよく見えているので、座は盛り上がるという仕組み。身振りには、虎(トラ)、加藤清正、母の三通りで、トラは清正に槍で退治されて負け。清正は母に負け。母はトラに負け。という仕組みである。トラは四つんばいになって演じ、清正は槍を両手に持ったかのように演じ、母は腰を曲げて杖をついているかのように演じる。「加藤清正」が「和藤内(わとうない)」(国性爺合戦(こくせんやかっせん)の主人公)になることもある。和藤内の場合もトラと母は変わらない。
「こんぴらふねふね」は「金毘羅舟々、追風(おいて)に帆かけてシュラシュシュシュ」の歌に合わせて手を出し合い、舞妓や芸妓と差し向かいで器の取りっこをする遊び。相手が器を取ったら出す手を拳(こぶし)にしなければならない。単純だが、反射神経を試される遊び。
「むぎつんで」は、舞妓、芸妓と客が車座になり、三味線が囃(はや)しに合わせて十円玉などの硬貨を次々に隣に渡していく。やがて突然三味線の音が止まる。そのときに誰が硬貨を握っているかを当てる遊び。「とらとら」は文章を読んだだけではさほど面白くなく思えるだろうが実際に筆者が体験してみるとあまりのおかしさに腹を抱えて笑ってしまった。「こんぴらふねふね」よりも「とらとら」の方が筆者の好みであった。
京都の建築
【問33】琵琶湖疏水(びわこそすい)が明治十八年に起工後、その国家的大事業の設計施工の総責任者となったのは田辺朔郎(たなべ さくろう)だった。数年の難工事の末、明治二十三年四月に通水式を迎えることができた田辺朔郎は、そのとき何歳だったか。
1:二十八歳
2:五十八歳
3:八十八歳
4:九十八歳
答え:1の「二十八歳」が正しい。
田辺朔郎は文久元年(一八六一年)江戸に生れた。明治十五年(一八八二年)に工部大学校の学生であった朔郎は、琵琶湖疏水の実現に奔走する京都府知事北垣国道(きたがき くにみち)に会い、請われて翌年京都府に着任した。大工事による財政圧迫と未知の技術力に不安を抱く反対派を説得する知事を助けて、明治十八年(一八八五)起工後は設計施工の総責任者となった。
どのようにしてこのような若い人間を国家的大事業の総責任者にしたのか。その経緯は、次のようなものだという。
明治十五年(一八八二年)、京都府知事北垣国道はこの大事業実現をめざし,中央政府各省庁を説得。内務卿の山田顕義をはじめ大蔵、農商務各卿の賛意を得た。さらに北垣は北海道開拓使時代に面識のあった東京虎の門の工部大学校(東京大学工学部の前身)に大鳥圭介校長を訪ねて相談した。話を聞いた大鳥は、当時、工部大学校の学生であった田辺朔郎を呼び寄せて北垣知事に紹介した。朔郎は執筆中の卒業論文を見せたが、それは琵琶湖疏水に関するもので、彼はその内容について理路整然と説明したのだった。
著者略歴
早稲田大学大学院商学研究科博士後期課程中退。早稲田大大学院商研を学長賞受賞で修了。MBA。日本放送協会で、アフガニスタン内戦、カシミール内戦、湾岸戦争、米国核廃棄物、米加漁業紛争、京都の歴史文化・京都の伝統産業・京都の先端技術産業シリーズなどを取材。国際協力機構専門家・アジア太平洋放送開発機構講師を歴任。アジア各国の放送局のジャーナリストを育成指導。
Kyoto Quizzes 800: four-choice questions (Japanese Edition)
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