本著は、インテル×マガジンハウスによる「あなたを作家にするプロジェクト」(2010年3月~12月実施)に寄せられた8442点の応募作品の中から選ばれた最優秀作品で、
大幅な加筆修正を加えてマガジンハウスから出版された単行本の電子書籍版です。
マガジンハウス『マリアの涙』: http://magazineworld.jp/books/paper/2215/
<インテル・マガジンハウス「あなたを作家にするプロジェクト」最優秀作品受賞の瞬間>
https://www.youtube.com/watch?v=7WZ_iv_EYT8
<新刊ラジオで、『マリアの涙』のプロローグがラジオドラマ形式で紹介>
http://www.sinkan.jp/radio/radio_1374.html
<文芸評論家で詩人の寺田操氏の書評(『週刊読書人』2011年2月25日号)>
涙を流すマリアの秘密
リルケの詩や「スターバト・マーテル」を通奏低音に
宗教をキーワードに使ったミステリアスな物語といえぱ、ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』や、
ダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』が想起される。
2作品とも殺人事件の推理がメインだが、ゴチック建築の伽藍で彷徨する迷宮譚や、
名画に秘められた謎と聖杯伝説など、スリル満点で華麗な美を堪能できる構成だ。
『マリアの涙』は、どのような着想と謎解き世界をみせてくれるのだろう。
クリスマス近い雪の降る日、崩壊状態にある家に帰りたくない高校生の藤原道生は、
夕闇のなかに立つマリア像の前にいた。
雪の帽子をかぶったマリア像が寒さに震えているような気がして、
手袋を脱いでマリアの細い指にはめた。
そのとき何かが落ちてきて、拾ってみると小さな卵型のメダルだった。
メダルをにぎりしめると、「入ってもいいのよ」と声が聞こえ、教会の扉を開いて入った道生は、
メダルが「無原罪のマリアの不思議なメダイ」と呼ばれることを知った。
15年後、画家・彫刻家になった藤原道生は、
「聖母マリア美術館」の落成記念にミケランジェロのピエタ像レプリカを作成し絶賛を浴びるが、
2年後に像の顔が傷つけられる事件が起きた。
悲嘆にくれる道生に、 「あなたのピエタを彫ってほしいのです。私のために」というマリアの声。
しかし、ピエタ像完成披露当日、彼は不可解な死を逐げ、オリジナルのピエタ像は、
のっぺらぼうの顔を人々の前にさらした。
自殺は大罪とされるカトリックにあって、藤原道生への絶賛は地に落ち、
レプリカのピエタ像も撤去去されることになったのだが、
突然マリアの右目が涙を流した。
道生の死は自殺かそれとも他殺なのかの謎、破壊されたピエタ像の真相、
涙を流しつづけるマリアの奇蹟に隠された真実。
無原罪のマリアから悔い改めたマリアヘの教義をめぐる事件。
東京、京都、イタリアを舞台に、物語は、藤原道生に関わる人々の運命を、思わぬ場所へ連れだしていく。
神父くずれの作曲家・高津真理夫は、かつて母の胎内にいるとき、
夢に現われたマリアの声に導かれて神父への道を目指していた。
しかし、父母の交通事故により、キリストとマリアの境遇に似た出生の秘密を知って絶望する悲痛な体験があった。
婚約者・道生の自殺で苦悶するファッションデザイナーの花山エリカは、
小学校6年生のときに白血病に冒され数年しか生きられないと宣言されていたが、
フランスのルルドで奇蹟的な癒しを得たマリア体験があった。
図書館勤めの谷川美香子は、5歳のときに地震で倒れてきたマリア像で左頬に傷ができ、
彼女をかばって身を投げ出した少年は、意識が戻らなくなった災禍に遭遇。
涙を流す聖母マリア像は世界各地で記録され、涙は慈愛と奇蹟の徴として、
宗教とは無縁の者にとっても素朴な祈りの対象とされてきた。
愛すべき対象を失った人の心の内に流された涙は、
癒しや赦しや奇蹟を求める涙であり、言語不可能な感情表出のシンボル。
マリア体験を持った4人の男女を、苦悩や試練、希望や絶望、癒しと愛の体験に誘いだし、
彼らの多声=ポリフォニーを縦横無尽に響かせてマリアの涙の秘密に迫る仕掛け。
リルケの詩や「スターパト・マーテル(悲しみの聖母)」の音楽を通奏低音とし、
ぐいぐいと読者を引き込むサスペンス。
終盤で道生の死の真相とマリアの涙の真実に触れるころ、
読者はきっと気持ちが晴れやかになるはずだ。
http://peterchavier.com/images/Shukandokushojin-20110225.jpg
<本文より抜粋>
美香子は幼い頃、母がよく行き来していた近所の市木家の二歳年上の男の子、耀介ととても仲がよく、
近くにあったカトリック教会の敷地でたびたび遊んでいた。
教会の裏庭にはカトリックの教会や修道院などによく見られる洞窟のようなものがあり、
その入口の上には、小柄な女性の背丈ほどのマリアの石像が立っていた。
その場所は、「私は無原罪の御宿りです」と聖母マリアが出現したことで知られているフランスのルルドに因んで「ルルド」と呼ばれていた。
美香子が五歳のときのことであった。
「ルルド」の近くでは遊んではいけないと言われていたので、普段は他のところで遊ぶようにしていたのだが、
その日に限って年上の子供たちに混じって彼女もそこで遊んでいた。
ところがそのとき、運悪く強い地震が起こった。
地面が突然激しく揺れて、その洞窟が崩れ始めた。
子供たちは驚いてすぐに逃げたが、石につまずいて倒れ、
逃げ遅れてしまった美香子の上に、マリア像が倒れ落ちてきたのだ。
上から落ちてくる石の塊を美香子はとっさによけようとしたがよけきれず、
それに当たって死ぬかもしれないと諦めて目をつむった瞬間、
何かが彼女の上に覆いかぶさってきた。マリアの像が美香子の体を潰そうというその瞬間に、
耀介が彼女を庇おうとして自分の体を投げ出したのである。
美香子は左頰に鋭い痛みを感じると同時にゴンという鈍い音を聞いた。
壊れたマリア像の右腕が当たって頰が切れ、赤いものが飛び散っていた。
周りに飛び散った自らの血と、手の上にぬるぬるした赤いものが流れ落ちてくるのを見て驚いた彼女は恐ろしくなり、声をあげて泣き出した。
「こらーっ! ここで遊んではいかんと言っただろう!」
教会の滝本昭神父が美香子の泣き声と子供たちの騒ぐ声を聞きつけあわてて飛んできた。
「な、なんということだ!」
マリア像が片腕を失って地面にころがっており、そのマリア像の近くに、頭から血を流して倒れている男の子と、
彼に守られるようにしてその下敷きになって顔から血を流して泣いている女の子を見て、
神父は起こった出来事の深刻さを悟った。
すぐに子供たちを助け起こそうとしたが、男の子は意識を失っていて動かなかった。
耀介の下から助け出された美香子は、そのとき初めて自分が聞いたゴンという音が何を意味していたのかを理解した。
美香子は自分が顔から血を流していることも忘れて耀介の体にしがみついて、大声をあげて泣いた。
神父は急いで司祭館に駆け込んで電話で救急車を呼んで戻り、
持っていたハンカチで彼女の傷口から流れる血を止めてやろうと、
美香子を耀介の体から引き離そうとした。しかし彼女は、耀介から離れようとしなかった。
泣きながら彼女は、マリアに対する激しい憎しみの思いが自分の心に沸き上がるのを感じていた。
これが美香子とマリアとの初めての出会いであった。
「マリア様のせいだ! マリア様のせいで耀介ちゃんは死んだんだ! マリア様が耀介ちゃんを殺したんだ!」
美香子が泣きじゃくりながらそう叫んだとき、神父は心が凍り付くような気持ちがした。
「耀介君は、意識を失ってはいるけれどまだ生きているよ」
その神父の言葉に美香子は救われたように我に返ったが、すぐに訊ねた。
「でも、死ぬかもしれないんでしょ?」
「それはなんとも言えないけど、きっと大丈夫だよ」
(一体何が起こっているのだろう。よりによって、我々を守って下さるはずのマリア様の御像によって、一人の子供が意識不明になるような悲惨な事故が起こるなんて)
神父は心が暗くなるのだった。
(思えば、こんな幼い子が、自分のために友達が犠牲になったことをまともに受け止められるはずはないのかもしれない。
マリア様のせいにしなければ、きっとその矛先は自分に向かって来て耐えられないのだろう)
そう思うと、少女が哀れであった。
「耀介君がこうなったのは、決してあんたのせいじゃないよ」
神父は優しい声でそう語りかけた。
だが美香子は、神父が何を言っているのか理解できないらしく、
「マリア様のせいよ! マリア様のせいで、耀介ちゃんは死にそうなんだ!」
と何かにとりつかれた様に繰り返すだけであった。
救急車で病院に運ばれた耀介は、命は取り留めたものの、それ以後意識が回復することはなかった。
美香子の頰の傷はやがて時の経過とともに癒えて行ったが、かなり深かったこともあり跡が残った。
その傷跡のため、彼女はずっと虐められ続けたのである。醜い奴と罵られ、お化けのようだと嘲られ、気持ち悪いと笑われた。
まだ小学一年生の女の子にとって、拷問のような残酷で辛く悲しい日々が続いた。
大幅な加筆修正を加えてマガジンハウスから出版された単行本の電子書籍版です。
マガジンハウス『マリアの涙』: http://magazineworld.jp/books/paper/2215/
<インテル・マガジンハウス「あなたを作家にするプロジェクト」最優秀作品受賞の瞬間>
https://www.youtube.com/watch?v=7WZ_iv_EYT8
<新刊ラジオで、『マリアの涙』のプロローグがラジオドラマ形式で紹介>
http://www.sinkan.jp/radio/radio_1374.html
<文芸評論家で詩人の寺田操氏の書評(『週刊読書人』2011年2月25日号)>
涙を流すマリアの秘密
リルケの詩や「スターバト・マーテル」を通奏低音に
宗教をキーワードに使ったミステリアスな物語といえぱ、ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』や、
ダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』が想起される。
2作品とも殺人事件の推理がメインだが、ゴチック建築の伽藍で彷徨する迷宮譚や、
名画に秘められた謎と聖杯伝説など、スリル満点で華麗な美を堪能できる構成だ。
『マリアの涙』は、どのような着想と謎解き世界をみせてくれるのだろう。
クリスマス近い雪の降る日、崩壊状態にある家に帰りたくない高校生の藤原道生は、
夕闇のなかに立つマリア像の前にいた。
雪の帽子をかぶったマリア像が寒さに震えているような気がして、
手袋を脱いでマリアの細い指にはめた。
そのとき何かが落ちてきて、拾ってみると小さな卵型のメダルだった。
メダルをにぎりしめると、「入ってもいいのよ」と声が聞こえ、教会の扉を開いて入った道生は、
メダルが「無原罪のマリアの不思議なメダイ」と呼ばれることを知った。
15年後、画家・彫刻家になった藤原道生は、
「聖母マリア美術館」の落成記念にミケランジェロのピエタ像レプリカを作成し絶賛を浴びるが、
2年後に像の顔が傷つけられる事件が起きた。
悲嘆にくれる道生に、 「あなたのピエタを彫ってほしいのです。私のために」というマリアの声。
しかし、ピエタ像完成披露当日、彼は不可解な死を逐げ、オリジナルのピエタ像は、
のっぺらぼうの顔を人々の前にさらした。
自殺は大罪とされるカトリックにあって、藤原道生への絶賛は地に落ち、
レプリカのピエタ像も撤去去されることになったのだが、
突然マリアの右目が涙を流した。
道生の死は自殺かそれとも他殺なのかの謎、破壊されたピエタ像の真相、
涙を流しつづけるマリアの奇蹟に隠された真実。
無原罪のマリアから悔い改めたマリアヘの教義をめぐる事件。
東京、京都、イタリアを舞台に、物語は、藤原道生に関わる人々の運命を、思わぬ場所へ連れだしていく。
神父くずれの作曲家・高津真理夫は、かつて母の胎内にいるとき、
夢に現われたマリアの声に導かれて神父への道を目指していた。
しかし、父母の交通事故により、キリストとマリアの境遇に似た出生の秘密を知って絶望する悲痛な体験があった。
婚約者・道生の自殺で苦悶するファッションデザイナーの花山エリカは、
小学校6年生のときに白血病に冒され数年しか生きられないと宣言されていたが、
フランスのルルドで奇蹟的な癒しを得たマリア体験があった。
図書館勤めの谷川美香子は、5歳のときに地震で倒れてきたマリア像で左頬に傷ができ、
彼女をかばって身を投げ出した少年は、意識が戻らなくなった災禍に遭遇。
涙を流す聖母マリア像は世界各地で記録され、涙は慈愛と奇蹟の徴として、
宗教とは無縁の者にとっても素朴な祈りの対象とされてきた。
愛すべき対象を失った人の心の内に流された涙は、
癒しや赦しや奇蹟を求める涙であり、言語不可能な感情表出のシンボル。
マリア体験を持った4人の男女を、苦悩や試練、希望や絶望、癒しと愛の体験に誘いだし、
彼らの多声=ポリフォニーを縦横無尽に響かせてマリアの涙の秘密に迫る仕掛け。
リルケの詩や「スターパト・マーテル(悲しみの聖母)」の音楽を通奏低音とし、
ぐいぐいと読者を引き込むサスペンス。
終盤で道生の死の真相とマリアの涙の真実に触れるころ、
読者はきっと気持ちが晴れやかになるはずだ。
http://peterchavier.com/images/Shukandokushojin-20110225.jpg
<本文より抜粋>
美香子は幼い頃、母がよく行き来していた近所の市木家の二歳年上の男の子、耀介ととても仲がよく、
近くにあったカトリック教会の敷地でたびたび遊んでいた。
教会の裏庭にはカトリックの教会や修道院などによく見られる洞窟のようなものがあり、
その入口の上には、小柄な女性の背丈ほどのマリアの石像が立っていた。
その場所は、「私は無原罪の御宿りです」と聖母マリアが出現したことで知られているフランスのルルドに因んで「ルルド」と呼ばれていた。
美香子が五歳のときのことであった。
「ルルド」の近くでは遊んではいけないと言われていたので、普段は他のところで遊ぶようにしていたのだが、
その日に限って年上の子供たちに混じって彼女もそこで遊んでいた。
ところがそのとき、運悪く強い地震が起こった。
地面が突然激しく揺れて、その洞窟が崩れ始めた。
子供たちは驚いてすぐに逃げたが、石につまずいて倒れ、
逃げ遅れてしまった美香子の上に、マリア像が倒れ落ちてきたのだ。
上から落ちてくる石の塊を美香子はとっさによけようとしたがよけきれず、
それに当たって死ぬかもしれないと諦めて目をつむった瞬間、
何かが彼女の上に覆いかぶさってきた。マリアの像が美香子の体を潰そうというその瞬間に、
耀介が彼女を庇おうとして自分の体を投げ出したのである。
美香子は左頰に鋭い痛みを感じると同時にゴンという鈍い音を聞いた。
壊れたマリア像の右腕が当たって頰が切れ、赤いものが飛び散っていた。
周りに飛び散った自らの血と、手の上にぬるぬるした赤いものが流れ落ちてくるのを見て驚いた彼女は恐ろしくなり、声をあげて泣き出した。
「こらーっ! ここで遊んではいかんと言っただろう!」
教会の滝本昭神父が美香子の泣き声と子供たちの騒ぐ声を聞きつけあわてて飛んできた。
「な、なんということだ!」
マリア像が片腕を失って地面にころがっており、そのマリア像の近くに、頭から血を流して倒れている男の子と、
彼に守られるようにしてその下敷きになって顔から血を流して泣いている女の子を見て、
神父は起こった出来事の深刻さを悟った。
すぐに子供たちを助け起こそうとしたが、男の子は意識を失っていて動かなかった。
耀介の下から助け出された美香子は、そのとき初めて自分が聞いたゴンという音が何を意味していたのかを理解した。
美香子は自分が顔から血を流していることも忘れて耀介の体にしがみついて、大声をあげて泣いた。
神父は急いで司祭館に駆け込んで電話で救急車を呼んで戻り、
持っていたハンカチで彼女の傷口から流れる血を止めてやろうと、
美香子を耀介の体から引き離そうとした。しかし彼女は、耀介から離れようとしなかった。
泣きながら彼女は、マリアに対する激しい憎しみの思いが自分の心に沸き上がるのを感じていた。
これが美香子とマリアとの初めての出会いであった。
「マリア様のせいだ! マリア様のせいで耀介ちゃんは死んだんだ! マリア様が耀介ちゃんを殺したんだ!」
美香子が泣きじゃくりながらそう叫んだとき、神父は心が凍り付くような気持ちがした。
「耀介君は、意識を失ってはいるけれどまだ生きているよ」
その神父の言葉に美香子は救われたように我に返ったが、すぐに訊ねた。
「でも、死ぬかもしれないんでしょ?」
「それはなんとも言えないけど、きっと大丈夫だよ」
(一体何が起こっているのだろう。よりによって、我々を守って下さるはずのマリア様の御像によって、一人の子供が意識不明になるような悲惨な事故が起こるなんて)
神父は心が暗くなるのだった。
(思えば、こんな幼い子が、自分のために友達が犠牲になったことをまともに受け止められるはずはないのかもしれない。
マリア様のせいにしなければ、きっとその矛先は自分に向かって来て耐えられないのだろう)
そう思うと、少女が哀れであった。
「耀介君がこうなったのは、決してあんたのせいじゃないよ」
神父は優しい声でそう語りかけた。
だが美香子は、神父が何を言っているのか理解できないらしく、
「マリア様のせいよ! マリア様のせいで、耀介ちゃんは死にそうなんだ!」
と何かにとりつかれた様に繰り返すだけであった。
救急車で病院に運ばれた耀介は、命は取り留めたものの、それ以後意識が回復することはなかった。
美香子の頰の傷はやがて時の経過とともに癒えて行ったが、かなり深かったこともあり跡が残った。
その傷跡のため、彼女はずっと虐められ続けたのである。醜い奴と罵られ、お化けのようだと嘲られ、気持ち悪いと笑われた。
まだ小学一年生の女の子にとって、拷問のような残酷で辛く悲しい日々が続いた。