--以下、抜粋です。
無職であるかどうかにかかわらず、働いているかどうかにかかわらず「無職性」が問われる人間と、問われない人間がいるということだ。主婦は、無職であるにもかかわらず、「無職性」が問われない。三〇代、四〇代の男性は、実際にフリーターとして働いていても、「無職性」が問われる。
「原始共産制においては、個人的に飢えるということがなかった」とか、「石器時代は狩猟と採集で、ずいぶん不安定な感じがするけど、案外、食べ物がそこら辺にあって楽だった可能性がある」とか「労働市場において、労働力だけ提供するなんてことはできないんだ」とか「引きこもりが家事労働をしている場合はどうなのだろう」とか「労働者がその生産物である商品と疎遠な関係になってしまうということは問題だ」とか「労働市場において、労働力を提供して、賃金をもらっているわけだけど、労働力だけ提供するなんてことは、できない」とか「自分が食べるものではなくて、人が食べるものを生産するというのはどういうことなのか」「同じ行為をしていても、労働になる場合とならない場合がある」ということは、考えないのである。
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その行為自体の性格ではなくて、「見る人」が、労働行為かどうか決めているのである。その行為が労働行為なのか、労働行為ではないのかは、その行為自体の性格ではなくて、その行為を観察するほうが、勝手に「労働行為」と見なしたり、「労働行為ではない」と見なしたりするものなのである。小室直樹が言っているように、どれだけ熱心に茶碗を作っても、茶碗を作っているだけでは、労働したことにならない。
かつて小室直樹が指摘したことを、ここでも繰り返しておこう。
ブッダは本当に、労働なんてしないで、修行をしましょうという人だから。で、日本の仏教だと、これが、ひっくり返ってしまうんだよな。「労働こそが修行だ」というような感じで、ひっくり返ってしまう。
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で、このひっくり返りと、プロテスタンティズムの労働観みたいなものが、くしくも、一致している。まあ、違うところもいろいろあるのだけど、その点では、似たようなものになる。
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で、西洋では、プロテスタンティズムの労働観が「余剰」をうんでしまうのである。なので、近代資本主義が発展した。日本では、「労働こそが修行だ」というひっくり返りによって、「余剰」が生じて、近代資本主義が発達した。江戸時代の終わりぐらいには、あとちょっとで、産業革命みたいなところまで、行ってたんだよね。自力で……。
--抜粋終了
目次
●はしがきにかえて……売れば仕事をしたことになる
第一部 労働とはなにか?
●「働けるのに働かない」のか「働けないから、働けない」のか
●病名、症状名がつかないと「甘え」と言われる
●農産物を作らないものは、農産物を食うべからずってことにはならないでしょ
●働くということは、買い手がいることで成り立つ
●労働とは、自己表現、苦役、ゲーム。
●「二〇代、三〇代、四〇代、五〇代の男性なら、働いているはずだ」
●四〇代の男性は、実際にフリーターとして働いていても、「無職性」が問われる
●引きこもりもシャドーワークをしている場合がある
●「なんでもいいから働け」「職業に貴賎なし」は成り立つか?
●雇用形態が身分制度になっている……正社員、非正規社員、バイト・パートという偉さの順番
●本当のニート対策、引きこもり対策は、保護貿易主義政策を推し進めることなのだと悟った
●天才くんや金持ちくんには、実は、国境がない
●繰り返すけど、日本と他国の賃金差がひきこもり、ニート増加の原因
●就労指導は、ぜんぜん解決策になってない。パイを増やさないとダメ。
●「労働教徒」との無益な争いを避けるための嘘
●労働力だけ提供することなんてできない……かならず人格が関わる
第二部 無職を巡る話
●「探偵ナイトスクープ 53歳の引きこもりと引きこもり犬」を視た
●高齢引きこもりと眠り病
●「無職男子」と交際はあり?なし? を読んだ
●磯野波平 年齢は五四歳。ありえんだろ~~。ありえん
●生活保護費を削減とかそういう方向にいっちゃダメなんだよね
●文化資本の差と自己責任
●自己中心的考えが目立つのはどちらか?
●「ホワイトな労働教徒」は毒入りパンを勧める
●無職とパチンコに関する考察
●あとがきにかえて……ゲームと仕事
Mushoku no genshougaku: Hataraki taku nai de gozaru zettaini hataraki taku nai de gozaru (Japanese Edition)
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