刊行した本が大当たりして「ベストセラー」と呼ばれるようになる部数の目安は「10万部」と言われていますが、世界的に見るとそうした「ベストセラー」の範疇を超えるほどのとてつもない売れ方をした本も存在し、例えば近年の世界的ベストセラー(ミリオンセラー)と言える「ハリー・ポッター」シリーズは世界中で4億5000万部の売上があったと言われています(とはいえ、日本の人気漫画の売上も凄まじいところがあり、「ONE PIECE」は累計3億8000万部の売上があると言われているし、「ゴルゴ13」は2億8000万部、「ドラゴンボール」は2億3000万部の売上があるらしい。数字はウィキペディアより)。
ただ、近年の世界的ベストセラーの象徴である「ハリー・ポッター」であってもかなわない売れ方をした本も存在し、それが「世界一のベストセラーでありロングセラー」と言われているキリスト教の「聖書」だと思います。
聖書というのはある意味「二千年前から発行されている書物」なので正確な累計発行部数を提示するのは不可能なようですが、推定で60億から3880億部の発行部数があると言われています(幅が広すぎるので何とも言えないが、下限である「60億」と認識すればいいと思う。あと、聖書やコーラン、さらには近年の新興宗教団体が発行する宗教に関する書物は無料配布されることも多いので「60億」という数も販売部数とは言えないようだが、それでも「世界一のベストセラーは聖書」という説に異論を唱える人はいないと思う)。
聖書(中でも新約聖書)はヨーロッパを中心とするキリスト教圏では以前から「キリスト教圏の中では最大のベストセラー」であり、さらにキリスト教が世界一の宗教になった後は「世界一のベストセラー」としての地位を不動のものにしてきたと言えますが、さらに聖書というのは「千年単位という長い時間の間、多くの人に読まれ続けてきたロングセラー」でもあるため、後世の世界全体に与えた影響力の大きさは凄まじいものがあると思います(その大きさは、『文書を後世に残す方法1』で紹介した「平家物語が後世の日本人に与えた影響力」とは比べものにならないと思う)。
残念ながら、その「影響力」の中には「悪影響」という要素も確実に存在し、その一つに「聖書に登場するある人物を、大した根拠もないのに世界中のキリスト教徒が極悪人と認識して忌み嫌っていること」があげられます。その人物とは言うまでもなくユダ(十二使徒の一人と位置づけられているイスカリオテのユダ)のことで、例えば、戦前から戦後にかけて内村鑑三の「無教会派」と呼ばれる教会に所属したキリスト教徒で、戦前に東京帝国大学教授の職にあっただけでなく、戦後は東大総長すら務めた「この時期の日本におけるトップクラスのインテリ」と言える矢内原忠雄はユダについてこうした論評をしています。
「ユダの罪はイエスを売ったことそのことにある。そのことだけで、彼の罪は客観的にも主観的にも確定せられる。彼の動機の穿鑿や、その後の行動などは、少しも彼の罪を軽減しません。それにもかかわらず、どうしてユダ弁護論が絶えないのであろうか。(中略)第二には、『十二弟子の一人』であるユダが、イエスを売るというごとき最大の罪を犯したゆえを理解し難いからです。いかにも理解し難いことでありまして、その最善かつ唯一の説明は、サタンがユダに入ったというほかにはありえない。俗にいわれる魔が差したのです。それは人の生涯においても最も怖ろしき瞬間です。魔が差した時、人は思いもよらぬ大罪を犯します。その真面目な平生からはとうてい説明できぬ罪を犯すのです。あとでユダのごとく自ら縊れ死ぬるほどの後悔をしたとて、犯した罪は犯したのです。その事実をいかんともなしえません」(矢内原忠雄『イエス伝』角川ソフィア文庫283~287頁)
この人のユダ認識を簡単に言うと「ユダがイエスを売るという裏切り行為をしたことは事実で、その罪はユダに同情する人がどんなに弁護しても消し去ることはできない。なぜなら聖書にそう書いてあるからである」というものと言えますが、私はこの論評を読んだ時に「これは多くのキリスト教徒の方が持たれているユダ認識の象徴なのかもしれないな」という思いになったものです。
もしこれを読まれている方にキリスト教徒の方がいらっしゃった場合、この矢内原氏の論評に対して「確かにその通りだ」という賛同や共感の思いを持たれたかもしれませんが、私はこうした認識を持たれているキリスト教徒の方々に対して「それはユダという人に対する明らかな人権侵害ですよ」と言いたい気持ちがあります。
なぜかと言いますと、「ユダがイエスを裏切った」ことは事実とは言い切れないからです。司法の世界では「疑わしきは罰せず」とか「疑わしきは被告人の利益に」と言われることがあり、これは「被告が犯罪を行ったことが証明で確定した事実にならなければ、被告人の尊厳と名誉を守る(無罪にする)のが筋」という意味があると言えます。
この司法の精神に照らして考えれば、「ユダが卑劣な裏切り者だったことが証明で確定した事実にならなければ、ユダの尊厳と名誉を守るのが筋」ということになり、もし「ユダはイエスを卑劣に裏切った」ことが証明できない事柄である場合、ユダという人の尊厳と名誉を守ることを優先させて「裏切り者だという主張は取り下げる」のが筋であるからです(最低限「裏切り者だという断定」をやめて「裏切った可能性もある」という言い方に留めるべきだと思う)。ただ、「ユダは卑劣な裏切り者」という認識が強固に固定してしまった状態でこうした認識の転換をすることは難しいと言えます。
私は、世界中に「ユダは卑劣な裏切り者」という認識がまき散らされて固定化してしまった一因に「新約聖書(かその元になった資料)を書いた人間の意向が働いている」と思っているのですが、さらに言いますとこの「明らかな人権侵害」が起こった要因として、そうした文書を書いた人間に「後世に残る文書を書く際には注意が必要だ」という知識がなかったことが大きい、という印象を感じています。
電子書籍『文書を後世に残す方法1』では「自分が書いた文書を後世に残すための方法論」について触れましたが、実際に「後世に残る」ことになった場合は書いた人間に相応の責任が生じます。その意味で私としては「後世に残る文書を書く際には様々な注意点がある」ことも明確に指摘しておかなければ片手落ちになってしまうと考え、その具体的事例を述べた「聖書の問題点」というシリーズを企画した次第です。参考になれば幸いです。
まえがき ~司法の常識に照らして考えれば「ユダは卑劣な裏切り者」と主張することは彼の尊厳と名誉を傷つけることになる
1 後世に残った文書の中には「週刊誌的文書である皇帝伝」など、なぜ残ったのか理解に苦しむ文書も存在する
2 後世に残す文書を書く際は「実際に残った場合の悪影響」を事前に想定して細心の注意を払う必要がある
3 世界中のキリスト教徒がユダを「卑劣な裏切り者」として忌み嫌っている根源は新約聖書の記述にある
4 基本的に「どの解釈を選ぶかは各人の自由」だが、特定の人物の名誉毀損という要素が入ると状況が変わってくる
5 ユダの問題は「尊厳や名誉を傷つける場合」に当てはまるため、科学的態度で臨む以外に選択肢はない
6 四福音書と使徒行伝は「相互に関連がある史料」であるため、そうした史料が複数あっても信憑性は上がらない
7 パウロ書簡やヨセフスの著作に記述がないユダは「裏切りの可能性」どころか実在した可能性さえ高いとは言えない
8 裏切りの描写の不自然さを考えた場合、福音書著者がユダに復讐したい思いを持っていた可能性がある
9 福音書著者が高度な判断ができる人物だった場合、「物語性を高めるための裏切り者創作説」も成り立つ
10 マルコ伝にユダの裏切りの記述が入らなかった場合、他の福音書にも書かれなかった可能性がある
11 ユダへの復讐心を持っていたのはマルコ伝の著者ではなく「元になる資料を書いた人物」ということも考えられる
12 ユダの裏切りの証明ができれば「ユダは卑劣な裏切り者」と主張することは人権侵害にはならない
『文書を後世に残す方法1』では「平家物語の著者が清盛に復讐したい思いを持っていて、それが平家物語における清盛を悪く描く描き方につながった可能性がある」という指摘をしましたが、私はこの「福音書の著者がユダを悪く描いた事情」も同じ構図だと思っています。
もし、このユダの裏切りの記述に対する「福音書著者復讐説」が事実だった場合、私としては「よくもまあ、ここまでとてつもないスケールの復讐に成功したものだ……」とむしろ感心してしまうところがあります。
というのも、「平家物語の著者の清盛に対する復讐(仮にそうであればだが)」というのは「日本という世界の中の一国だけで、時間的にも800年程度だった(2012年のNHK大河「平清盛」で多少は清盛のイメージが改善された)」のに対し、「福音書著者のユダに対する復讐」というのは「ほとんど世界中に〝裏切り者ユダ〟のイメージがまき散らされて何億人、何十億人という人がユダは極悪人だという認識を固めてしまい、そうした状況が2000年近く続いていながらまったく改善の雰囲気が見られない」と言えるからです。
~「8 裏切りの描写の不自然さを考えた場合、福音書著者がユダに復讐したい思いを持っていた可能性がある」より
2015/11/2 1.1版 ・Kindle用目次
Problems of the New Testament Part1 (Japanese Edition)
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