明治・大正・昭和初期まで、日本の河川や湖には数多くの水上生活者が暮らしていた。明治四十一年の調査によれば、深川区の水上生活世帯数863、人口2290,船舶数1340。日本橋では、それぞれ、575世帯、1575人、498隻、京橋区は、814世帯、2235人、1418隻、浅草区では、108世帯、189人、184隻。(深川区史による)
これほどの数の水上生活者がどのような暮らしをしていたのか、それについてはほとんど知られていない。
志戸崎風景の物語は、東京の小名木川で水上生活を送っていた一家が仕事を失い、江戸川を遡って流山に掘削された運河を通り、利根川を下ってようやく霞ヶ浦の志戸崎という村にたどりついたことから話が始まる。父親が早船の仕事を得たので、しばらく逗留することになったのだ。早船は飛脚船とも言うが、村の人々から買い物を頼まれて町に買い出しに行く便利船の事で、荷物を届けたり、買い物客を乗せたりもする。
一家がたどりついた場所は、霞ヶ浦に半島のように突き出た出島台地の突先の歩崎(あゆみざき)という村である。村の背後の台地には肥えた農地が広々とひろがり、台地と湖が接する渚には多くの漁村が発達している。志戸崎はその出島の突先にある歩崎観音様の下の水辺の村で、地形的には辺鄙なところだが、見かけと異なってずいぶんと賑わっている。十二歳になるりつ子は東京でずいぶんたくさんの事を見てきたけれど、ここには東京にないものがやまほどある。
朝、波の音で目覚めると、「ひとひとひと、ふたふたふた、みよみよみよ、よつよつよつ・・・」と念仏のような声が響いてくる。「あれはなに」「問屋のおばさんが漁師の取ってきたワカサギを升で量っているんだよ」
眼をつぶると、朝日に輝く砂浜の彼方から釘を打つ音が響く。「チョンキチ、チョンキチ、チャカチャカチャカ、チャッカ・・・」あの音は、怨念鳥の声を真似た船大工の釘を打つ音だ。苫船のムシロから大きな宿が見える。東京や銚子から来る客を泊める蒸気宿で、酌婦が大勢働いている。人買いをする桂庵という女衒(ぜげん)も近くに住んでいる。桂庵の長太郎はりつ子が気に入って、村のあちらこちらに連れて行ってくれる。馬掛屋で飯を食っている弥一郎はみたこともないほど立派な体の漁師だが、ほんとうは小田荒らしという泥棒なのだそうだ。大金持ちの百姓が趣味で湖の中にこしらえる小田という魚礁から密かに鯉を盗む名人だという。でも、りつ子はこの弥一郎が長太郎よりもよほど好きだ。馬掛屋の真向かいには成瀬織物染物屋があるけれど、ここにはジャカートという日本に何台もないイタリア製の織機がある。その織物の指導をするために栃木県の桐生から三人の娘が住み込んでいたが、このあたりがあんまり寂しいので逃げ出したらしい。でも連れ戻されて、今は村の若い娘たちに織り方を指導している。その隣は網大工で網職人、村の真ん中には「あいのや」という湯屋がある。この湯には成瀬織物で働いている娘達と近くの中村製糸工場の女工たちが大勢入りに来るので、男湯も若い漁師で満員だ。男湯と女湯の壁を挟んで、男と女はきわどい声を出して大笑いする。ここの村の経営者たちは男と女の間の事は自分で始末をつければいいと公言して干渉しないから、とても人気がある。
台地の村には甚兵衛という大地主のお大尽と、薬師寺という名家がある。甚兵衛は宝の山を持っている。甚兵衛の山は何百町歩もある松林で、これを毎日切り子が切り出して、馬で霞ヶ浦の港まで運んで高瀬船に何千束と積み込む。高瀬船は薪の山を東京に運んで薪問屋に売る。東京の何百万世帯の人間は飯を炊くにも風呂を沸かすにも薪を使うから、甚兵衛の山からいくら切り出して需要が絶えることはない。甚兵衛の周りの百姓は金や肥料や種籾を借りに来るが、その借用証文の数は莫大なもので、台の屋敷から湖のほとりまで並べてもまだ半分にもならぬという。薬師寺は有名な易者・高島嘉右衛門を出した家で、先代の葬式には総理大臣の大隈重信が焼香にやってきたので、みなみな仰天した。薬師寺の屋敷には牢屋があって、軽い罪の者は巡査が収監を頼みに来る。薬師寺の当主は巡査が帰ってしまうと、よくよく諭して密かに家に戻してやる。こんな具合だから、薬師寺は名家としての誉れが高いのだ。
村には芝居も掛かる。桂庵の長太郎が仕切っている。でもりつ子は弥一郎といっしょに湖の底に潜んでいるタンカイという大きな貝を取るほうが好きだ。二㍍も下の水の中に小さな口を開けている。その口に篠竹を差し込むと、一尺もの貝が篠竹をぎっちりとくわえて浮かんでくる。
渚の日々は波のように、りつ子の耳の底で揺れ揺れしなから、静かに過ぎてゆく。
Shitozaki fuukei Kasumigaura suisontan (Japanese Edition)
Sobre
Baixar eBook Link atualizado em 2017Talvez você seja redirecionado para outro site