拙著「山陰戦国史の諸問題:上」で扱った、因幡の戦国武将武田高信の没年考証に対する、島根大学准教授長谷川博史氏から提起された「批判」への反論と、氏が提唱された天正元年死亡説が成り立たない事を、当事者史料を基に論証したものです。論文仕立てのため平易でははありませんが、高信やその一族、戦国時代の山陰地方へ関心をお持ちの方へはお勧めします。
全国的な知名度もない武田高信は、しかし、山陰地方において一時期、かなり重要な役割を果たしました。彼に対する評価は、江戸時代初期に成立した「稻場民談」において過酷なまでのマイナス点を与えられましたが、ほとんど全てが間違っており、そこに描かれた人物像とは真反対と言ってよいほどです。戦国時代の梟雄と扱われた人々の中では、これほど実像と異なる位置付けが成された人物も稀れでしょう。その最期は天正六年八月、八上郡大義寺において山名豐國によって謀殺された「大義寺事件」として知られていましたが、これが無理な事、事実としては天正四年五月四日以前、居城鵯尾城を襲撃され非業の死を遂げていた事が、襲撃に加わった人物の証言によって明らかとなりました。結果として「大義寺事件」は完全に宙に浮いてしまいましたが、長谷川氏への反論を作成する過程で、その事件が武田氏絡みで実在する可能性が急浮上して来ました。被害者の名こそ違え、高信の死後、武田家中を束ねていた人物が、山名豐國から冤罪を着せられた上、一方的に口封じのために殺害された事件の残像だったのです。
一武人の死が何時であろうと大差ない、とお考えの方は是非ご一読下さい。僅か一年であっても、実際と異なる年次に着地してしまえば、それによって影響を蒙る「無年号文書」の数はかなりにのぼるのです。そうなると、この時期の因幡や伯耆、但馬や出雲、美作方面の状況理解には決定的な差となって現れざるを得ないのです。
いずれにせよ、決して悪役以上の働き場所を与えられなかった武田高信とその一族達への鎮魂と、市民の関心と見直しの機運が高まる事を念じながら記してみました。
目次見本
■はじめに/■長谷川論文の基本試料と推論方/■湯原氏と末次・滿願寺、そして加賀城/■野村士悦の吉田逗留について/■鳥取落城前後の状況理解について/■老中・家中衆への理解を巡って/■官途等に関する「通例」について/■天正元年五月以降の「又五郎」について/■天正元年への理解を巡って/■一襲撃犯の証言 附/そして天正四年/■大義寺事件/■武田豐信の死没徴証とその背景/■当該期の草苅氏の動向/■付録資料/■まとめにかえて/■因幡武田氏関連略年譜
takeda takanobu notunenn ni kansuru itikousatu tenshougannnennsetu heno hihan wo tyuusinni (Japanese Edition)
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