私(小林弘潤)は自分の著作を世に出そうと志して2004年4月に独自の出版社である「月聖出版」という出版社を作り、2014年からは電子書籍に軸足を移して現在までに「16タイトルの紙の本と70タイトル程の電子書籍」を刊行してきましたが、12年が経過した2016年4月になっても「本が売れない状態」が続いているため(販売実績は紙の本3000部と電子書籍2500部程度で、年平均になると500部弱しか売れていないことになる)、今の私の立場(社会的地位)は「社会に何の力も持たない無名の一作家」になると思います。
おそらく、私が刊行してきた「月聖出版の本」を読まれた方の多くは本に対して「世間に無数に存在する作家の一人が書いた本で、読んでみて何か参考になったり面白いと感じられるところがあれば十分」という認識を持ってこられたと思います。私としては「本をどう読むかは著者ではなく読者が決めることなのだから、そうした見方で一向に構わない」という気持ちをずっと持ってきたのですが、最近になって見方が変わってきまして、もっと「月聖出版の本を読むことがどういう意味を持つのか」とか「本を読むことで何が得られるのか」を読者の方に積極的にアピールした方がいいのかもしれない、という思いになってきたものです。
私がそれを感じるようになったのは、2016年2月に電子書籍『日本国憲法の実態2』を書いていく中で「本質と表面の違いを見分けることの大切さ」に気づいたことにあります(20節に記載)。この本では「憲法改正問題を考える際は「日本の憲法の特殊性」とか「(様々な団体の新憲法草案の中によく出てくる)元首規定の危険性」について真剣に検討した方がいい」という主張をしているのですが、私はずっと以前から「この「日本の憲法の特殊性」とか「元首規定の危険性」なんて話は、自分の中ではとっくの昔に〝当たり前〟になっている話なのに、なぜ世間の人はこれらの話の重要性に気づかないのだろう?」という疑問を持っていたものです。
それに関して思ったのは「これは認識の仕方に大きな要因があり、世間の人の多くは本質からさかのぼった認識ができておらず、表面的な事象をバラバラの状態で認識しているからだ」ということです。例えば「元首規定の危険性」の場合、私の場合は「元首規定と統帥権規定は本質が同じもの」として認識しているものの(統帥権規定とは「戦前の日本を悲惨な戦争に導いた軍部の暴走の元凶」とさえ言える明治憲法第11条のこと)、世間の多くの人は「元首規定と統帥権規定は何の関連もないバラバラのもの」として認識していることで、「元首規定の危険性に気づかない」という現象が起こっているのだと思います。
さらに考えていく中で思ったのは「あるいは〝国民的作家〟と呼ばれて今でも絶大な社会的影響力を持っている司馬遼太郎であっても、軍部の暴走の本質や統帥権規定がなぜ問題なのかということに気づいていなかったのではないか」ということです(これに関しては司馬が昭和前期の日本を論評する際に「魔法の森」とか「魔の季節」というようなオカルト的な表現を使っていることに出ていると思う。詳細は『日本国憲法の実態2』21節)。これは決して「自分は司馬より偉い特別な人間だからこの人が気づかなかったことに気づいた」という意味ではなく、「自分の場合、常に物事の本質と表面の違いについて徹底的に考え、本質からさかのぼって人間や世界を認識しようとする考え方をしているから気づいただけ」ということです。
私自身は自分のことを「普通の人とは違う特別な人間」とは思っていませんし(というか「思いたくない」というのが本音)、「エリート主義」とか「選民思想」というような「自分たちを特殊な人間とみなして他の人と差別化する発想」が大嫌いなところがあります。大事なことは、こうした「本質からさかのぼった認識を心がけ、常に訓練を積み重ねた人であれば、こうした発見をすることは誰でもできる」ということですが、私としては「月聖出版の本には様々なところで、こうした本質からさかのぼった発想の重要性を盛り込んでいるから、本を読むことでそうした発見ができる人が増えていくのではないか」(そうである以上、もっと月聖出版の本の〝効用〟のような話を積極的にアピールした方がいい)という思いになった、ということです。
電子書籍『勉強のコツ3 秘伝編』14節では、受験勉強を経て晴れて大学に入学した方を対象に「大学の勉強など最低限の時間と労力で済ませ、浮いた時間をアルバイトや「月聖出版の本の内容の分析や解読」に使ってもらえれば」という言い方をしましたが、私は月聖出版から出ている様々なジャンルの本を読みこなせば「大学の勉強以上に様々な知識が身につく可能性も大いにある」と思っているところがあり(それでいて「授業料」などほとんどかからないと言える)、ある意味月聖出版の本を「一種の天才教育の場」とさえ思っているところがあります(例えば月聖出版から出している歴史系や政治系の本を読み込んで相当な理解をした人であれば「司馬遼太郎の〝司馬史観〟に匹敵するような歴史観を打ち出す」ことも十分可能だと思う)。
こうした話から「月聖出版とは単なる出版社ではなく、様々な可能性が秘められている」ことを感じてもらえればと思いますが、私としては「月聖出版の本を読んだ人の中から今後の日本や世界を変える人が出てくる」と本気で思っているところがあります。参考になれば幸いです。
まえがき ~月聖出版の本を参考にして「本質からさかのぼった認識」に精通すれば「司馬史観に匹敵する歴史観を打ち出す」ことも十分可能
1 月聖出版の本は「基礎や土台がしっかりしている」ことで、歴史や政治や宗教などの事象や疑問に対する様々な分析や真相解明ができる
2 「愛」ではなく「内からの実感重視」という概念を意識することで「見返りを求めない愛」の本当の意味がわかる
3 「内からの実感重視」にはイエスが「愛」の主張に込めた「逆説的な思考」が入っている意味でも本質は同じである
4 「自らの主観的世界の自覚」という視点を意識することが傲慢な人間になることや、簡単に絶望することを防ぐ防波堤になる
5 「自らの主観的世界の自覚」と「内からの実感重視」はキリスト教で言われている「信仰と隣人愛を重要視する発想」と同じである
6 奥の深さと応用範囲の広さを持つ「労力とやり甲斐のバランス」が身につけば多くの人に必要とされる存在になれる
7 「本質からさかのぼった認識」ができるかどうかは「国家の命運が左右されたり、多くの人々の生死に影響する」ほどの重要な問題である
8 司馬が昭和前期を論評する際に「魔性の森」というようなオカルト的な表現を使っているところに「司馬史観の限界」が出ている
9 「愛」や「徳」という言葉にとらわれると物事の本質から遠ざかってしまうこともあり、本質に到達するためには言葉の再構築が必要
10 新約聖書にある「辛辣なユダヤ人批判」の記述は「どんな人間であっても価値を求めている」という発想ができていないことで生じている
11 「民主主義の枠を超えた発想」をするためには「政治の本質」に民主主義とは違った概念を置き、民主主義はその下に位置づける必要がある
12 「サウロの回心」と「釈迦の菩提樹下の悟り」は「バラバラだったものが融合する体験」という意味で本質は同じである
13 再構築の必要性は「個人レベルだけの問題」ではなく、歴史と伝統を持った宗教思想に対しても再構築のメスを入れる必要がある
14 「表面的なものを絶対視して押しつける」のではなく「常に本質からさかのぼった考え方をする」のが月聖出版の精神である
※この「序論」に「本論」を加えた話を『月聖出版とは何か』というタイトルで刊行しています(非メジャー系の内容なので3000円)。
※出版社としての実績
・月聖出版、2004年4月から12年継続。紙の本16タイトルで合計売上約3000部(販売事例『勉強のコツ』約820部、『人間関係のコツ』約460部)。電子書籍約70タイトルで合計売上約2600部(販売事例『社会の学び方・日本史編1』約240部、『日本を千年王国にした女性・持統天皇1』約200部)。2014年度売上額推定260,000円、15年度170,000円(2016年5月現在)。
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