「2011年3月11日の東日本大震災はマグラチュード9.0と史上最大規模。死者不明者は約2万人。福島の原発事故と共に、日本人の意識を根底から揺さぶった。(東日本大震災)」
「マルコポーロのジパング黄金伝説のモデルは、平泉の金色堂である(ジパング伝説)」
「荒城の月の作詞者・土井晩翠は180曲近くの校歌もつくっていた(校歌)」など、東北地方に関連する興味深い人物や事件の数々
◎2011年東日本大震災
第3の原爆投下/津波の現場/
2011年4月/貞観大津波と貞山堀/
負けないで/東海・東南海・南海3連動
地震/喪失感と痛み/仙台の戦災復興
計画/2年目の3.11
「みんな、ありがとう」
○仙台牛タン事始め
「牛タン焼き」の発祥は終戦後。
山形県出身の料理人・佐野啓四郎が、
仙台市一番町3丁目に焼き鳥屋を開店
した事に始まる
◎相馬黒光(こっこう)
新宿中村屋創始者)/明治の仙台に
生まれた星良は、東京帝国大学前に
中村屋というパン屋を開く。夫の愛蔵は
シュークリームをヒントにクリームパン
を考案し大ヒット
○カリーライス
新宿中村屋の相馬愛蔵は英国のお尋ね者・
ボースを匿った。彼は黒光に本格インド
カリーのレシピを伝授した
○中村屋サロン
新宿中村屋には明治・大正・昭和を
代表する文化人が集まる不思議
磁場があった。
○ユネスコ外伝/
終戦直後の仙台で、上田康一は
仙台ユネスコ協力会という、
世界初の民間ユネスコ運動組織を
立ち上げた。
○八甲田山
1902(明治35)年1月25日、
青森歩兵第5連隊210名が八甲田山
で凍死するという事件が起きた
○宮城野
楽天球場の土地は、平安朝
の貴族が萩の花を歌に詠んだ宮城野
と呼ばれる野原だった。ここに
樹齢1300年程の銀杏の古木が
ある。
○松
仙台の南・岩沼宿に日本三大
稲荷の1社、竹駒神社がある。芭蕉は
神社北側の武隈の松をめでたき松と
称えた
◎国見八景第一景「大崎八幡神社」
仙台城下鎮守の国宝・大崎八幡神社。
司馬遼太郎は桃山様式を見たければ
これを見よと絶賛した。
・国見八景第二景「南山閣」
明治・大正の頃、国見の一角に南山閣
という別荘があった。ここに正岡子規、
与謝野鉄幹、土井晩翠らが訪れ詩想を
練った
・国見八景第三景「龍雲寺」
この寺に林子平の墓がある。子平は
海国兵談を著し海軍の重要性を説いた。
この本の重要性を見出したのは幕末の
吉田松陰だった
・国見八景第四景「北山五山」
仙台藩祖・伊達政宗は北山丘陵に五山
を設けた。資福禅寺開山の虎哉宗乙は
政宗の師。光明禅寺には支倉常長の墓
がある
・国見八景第五景「輪王寺」
京都五山の別格は南禅寺。北山五山の
別格は輪王寺。開山は室町時代。庭園が
美しい
・国見八景第六景「荘厳寺」
伊達62万石分裂の危機描いた山本
周五郎著・樅の木は残ったの主人公・
原田甲斐屋敷の門が移築されている
・国見八景第七景「大願寺横丁」
1945(昭和20)年7月10日の
仙台空襲で1066名が死亡し、
108体が大願寺に葬られた
・国見八景第8景「芹沢美術館」
東北福祉大学構内に、染織家・芹沢
銈介美術館がある。 芹沢は民芸運動の
柳宗悦を師と仰ぎ、型絵染の技法を
極めてゆく
○ジパング伝説
マルコポーロが中国東方にチパングと
いう黄金の国があると東方見聞録に
書いたが、モデルの建物は平泉の金色堂
だと思われる
○桜
平安後期の桜を熱愛した歌人・西行は、
生涯二度、奥州藤原氏の都・平泉を
訪れた。束稲山(たはせしねやま)
に咲く1万本の山桜にここは吉野山かと
驚嘆した
○小説と史実の間
平安時代末期、平家と源氏、奥州藤原
3大勢力が並立していた。それは和製
三国志とも言える。だが奥州藤原氏
には謎が多い
○校歌
荒城の月の作詞者・土井晩翠は、
約180曲の校歌を作詞した。校歌は
世代を越えて歌い継がれてゆく隠れた
ロングセラー
○水の味
ニッカウイスキー創業者の竹鶴政孝は、
北海道積丹半島の余市と、仙台宮城峡
に蒸留所を設置した。余市の水からは
男性的なモルトが、宮城峡からは
女性的なモルトが生み出される
◎北畠顕家
南北朝動乱。誰が敵やら味方やら。複雑
怪奇に入り乱れた時代。若き貴公子・
北畠顕家は奥州兵と共に打倒足利尊氏の
兵を挙げた
○北畠顕信
南朝は崩御した後醍醐天皇の後をうけて
義良親王が後村上天皇として即位。そして
奥州平定に向かったのは、戦死した北畠
顕家の弟・顕信だった
○青葉城
奥州藤原氏滅亡後、多賀城付近は留守氏が
千代は国分氏が支配していた。慶長5年に
伊達政宗は千代を仙台に改めた
○多賀城
大和朝廷は広大で豊饒なる土地を求めて
軍隊を派遣し、陸奥鎮所を置いて新田開発
を行った。後の陸奥国府・多賀城である
○北方領土
1854(安政元)年に日米和親条約が
締結されると、蝦夷地は幕府直轄領に
なり、仙台藩や南部藩などに防衛の
為の出兵が命じられた。仙台藩が
箱館奉行所の本陣屋を置いたのは、
現在の白老町。厚岸(あっけし)・
国後(くなしり)・択捉(エトロフ)に
脇陣屋を置いて北方警備の任に
あたった。ゆえに北方領土は仙台の
郷土史でもあるのだ。
「マルコポーロのジパング黄金伝説のモデルは、平泉の金色堂である(ジパング伝説)」
「荒城の月の作詞者・土井晩翠は180曲近くの校歌もつくっていた(校歌)」など、東北地方に関連する興味深い人物や事件の数々
◎2011年東日本大震災
第3の原爆投下/津波の現場/
2011年4月/貞観大津波と貞山堀/
負けないで/東海・東南海・南海3連動
地震/喪失感と痛み/仙台の戦災復興
計画/2年目の3.11
「みんな、ありがとう」
○仙台牛タン事始め
「牛タン焼き」の発祥は終戦後。
山形県出身の料理人・佐野啓四郎が、
仙台市一番町3丁目に焼き鳥屋を開店
した事に始まる
◎相馬黒光(こっこう)
新宿中村屋創始者)/明治の仙台に
生まれた星良は、東京帝国大学前に
中村屋というパン屋を開く。夫の愛蔵は
シュークリームをヒントにクリームパン
を考案し大ヒット
○カリーライス
新宿中村屋の相馬愛蔵は英国のお尋ね者・
ボースを匿った。彼は黒光に本格インド
カリーのレシピを伝授した
○中村屋サロン
新宿中村屋には明治・大正・昭和を
代表する文化人が集まる不思議
磁場があった。
○ユネスコ外伝/
終戦直後の仙台で、上田康一は
仙台ユネスコ協力会という、
世界初の民間ユネスコ運動組織を
立ち上げた。
○八甲田山
1902(明治35)年1月25日、
青森歩兵第5連隊210名が八甲田山
で凍死するという事件が起きた
○宮城野
楽天球場の土地は、平安朝
の貴族が萩の花を歌に詠んだ宮城野
と呼ばれる野原だった。ここに
樹齢1300年程の銀杏の古木が
ある。
○松
仙台の南・岩沼宿に日本三大
稲荷の1社、竹駒神社がある。芭蕉は
神社北側の武隈の松をめでたき松と
称えた
◎国見八景第一景「大崎八幡神社」
仙台城下鎮守の国宝・大崎八幡神社。
司馬遼太郎は桃山様式を見たければ
これを見よと絶賛した。
・国見八景第二景「南山閣」
明治・大正の頃、国見の一角に南山閣
という別荘があった。ここに正岡子規、
与謝野鉄幹、土井晩翠らが訪れ詩想を
練った
・国見八景第三景「龍雲寺」
この寺に林子平の墓がある。子平は
海国兵談を著し海軍の重要性を説いた。
この本の重要性を見出したのは幕末の
吉田松陰だった
・国見八景第四景「北山五山」
仙台藩祖・伊達政宗は北山丘陵に五山
を設けた。資福禅寺開山の虎哉宗乙は
政宗の師。光明禅寺には支倉常長の墓
がある
・国見八景第五景「輪王寺」
京都五山の別格は南禅寺。北山五山の
別格は輪王寺。開山は室町時代。庭園が
美しい
・国見八景第六景「荘厳寺」
伊達62万石分裂の危機描いた山本
周五郎著・樅の木は残ったの主人公・
原田甲斐屋敷の門が移築されている
・国見八景第七景「大願寺横丁」
1945(昭和20)年7月10日の
仙台空襲で1066名が死亡し、
108体が大願寺に葬られた
・国見八景第8景「芹沢美術館」
東北福祉大学構内に、染織家・芹沢
銈介美術館がある。 芹沢は民芸運動の
柳宗悦を師と仰ぎ、型絵染の技法を
極めてゆく
○ジパング伝説
マルコポーロが中国東方にチパングと
いう黄金の国があると東方見聞録に
書いたが、モデルの建物は平泉の金色堂
だと思われる
○桜
平安後期の桜を熱愛した歌人・西行は、
生涯二度、奥州藤原氏の都・平泉を
訪れた。束稲山(たはせしねやま)
に咲く1万本の山桜にここは吉野山かと
驚嘆した
○小説と史実の間
平安時代末期、平家と源氏、奥州藤原
3大勢力が並立していた。それは和製
三国志とも言える。だが奥州藤原氏
には謎が多い
○校歌
荒城の月の作詞者・土井晩翠は、
約180曲の校歌を作詞した。校歌は
世代を越えて歌い継がれてゆく隠れた
ロングセラー
○水の味
ニッカウイスキー創業者の竹鶴政孝は、
北海道積丹半島の余市と、仙台宮城峡
に蒸留所を設置した。余市の水からは
男性的なモルトが、宮城峡からは
女性的なモルトが生み出される
◎北畠顕家
南北朝動乱。誰が敵やら味方やら。複雑
怪奇に入り乱れた時代。若き貴公子・
北畠顕家は奥州兵と共に打倒足利尊氏の
兵を挙げた
○北畠顕信
南朝は崩御した後醍醐天皇の後をうけて
義良親王が後村上天皇として即位。そして
奥州平定に向かったのは、戦死した北畠
顕家の弟・顕信だった
○青葉城
奥州藤原氏滅亡後、多賀城付近は留守氏が
千代は国分氏が支配していた。慶長5年に
伊達政宗は千代を仙台に改めた
○多賀城
大和朝廷は広大で豊饒なる土地を求めて
軍隊を派遣し、陸奥鎮所を置いて新田開発
を行った。後の陸奥国府・多賀城である
○北方領土
1854(安政元)年に日米和親条約が
締結されると、蝦夷地は幕府直轄領に
なり、仙台藩や南部藩などに防衛の
為の出兵が命じられた。仙台藩が
箱館奉行所の本陣屋を置いたのは、
現在の白老町。厚岸(あっけし)・
国後(くなしり)・択捉(エトロフ)に
脇陣屋を置いて北方警備の任に
あたった。ゆえに北方領土は仙台の
郷土史でもあるのだ。