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    The foreigner of Todai-ji establishment (Japanese Edition)

    Por Handeun

    Sobre

    まえがき
     「あをによし 寧楽の京師は 咲く花の 匂ふが如く いま盛りなり」
     この歌から、平城京のきらびやかな様子が伝わってくる。その平城京の精神的支柱は東大寺であり、その東大寺のシンボルは黄金の大仏であった。
     そのような構造物は、中国の〝教え〟によるものと、喧伝されるのが通り相場だが、その実、新羅の都を真似たものと、識者はいう。
     東大寺造立の由縁を調べて見ると、驚くなかれ、先の言葉を裏打ちするかのように、その核心的な部分の造立に携わったのは、韓半島からの渡来人、もしくはその子孫らである。井上光貞著『王仁の後裔氏族と其の仏』によれば、仏教が最初に行われた頃は三韓の僧が多く、日本人の中から僧が出る様になった時、その初期の僧は帰化人のみであるのに驚く、のみならず奈良時代、平安時代初期にかけても、仏教史上注目すべき人物には帰化人が多いと述べ、道慈、智光、慶俊、勤操、道昭、義淵、行基、良弁、慈訓、護命、行表、最澄、円珍らをあげている。
     東大寺草創期もやはり、そのほとんどが渡来人、もしくはその子孫といってよい。たとえば、
     ①良弁(ろうべん)は近江の百済~東大寺を開基し、初代別当に就いた。
     ②慈訓(じくん)王仁の子孫(船氏)~華厳講師をつとめ、少僧都に任じられた。
     ③行基(ぎょうき)王仁の子孫~東大寺初の大僧正(法相宗)。
     ④国中連公麻呂(くんなかのきみまろ)百済系渡来人国骨富の孫~大仏開眼に功績をたてた大鋳師。
     ⑤猪名部百世(いなべのももよ)新羅系の大工~東大寺の大仏殿を作った。
     ⑥百済王敬福(きょうふく)百済系渡来氏族~大仏塗金に要した金を発見。
     という具合である。
     そこで、このシリーズは、東大寺を開いた渡来人を追い求めてみることにしよう。第1巻は開山僧良弁を、第2巻では良弁以外に、草創に深くかかわった脇役たちを、由縁地を探訪しながら追ってみた。  2016年1月

    東大寺を開いた渡来人 1 開山僧良弁 目次
    まえがき
    華厳宗の総本山 東大寺
    良弁 相模出自説
     相模国鶴巻温泉
     漆部(ぬりべ)氏
     父は染屋九郎太夫時忠?
     染屋時忠の肩書きは鎌倉時代のもの
     大山寺縁起~大山開山の祖良弁さまの物語
     覚明という僧
     仏教布教のための良弁相模出自説
    良弁 若狭出自説
     鯖街道口
     若狭神宮寺
     神武帝=アマノヒボコ(天日矛・天日槍)=延烏郎?
     春を告げる「お水取り」は若狭では「お水送り」
     東大寺四聖人は聖武帝、菩提遷那、行基、良弁
     良弁は小浜下根来で出生
     若狭出自説を恣意的に抹殺?
     若狭彦大神は唐(韓)人のようであった
     桓武帝の生母高野新笠が和氏
     和ノ赤麿公(和氏=鷲)に連れられた神童が良弁に
    良弁 近江出自説
     良弁の姓は百済氏
     近江滋賀郡は渡来人の里
     良弁は応神朝渡来の阿知使主の子孫?
     良弁開基の金勝寺(こんしょうじ)
     比良明神=白鬚明神が良弁に啓示を与えた
    良弁杉
    良弁滝
    良弁余談
     駆け落ちの末の墓が曽爾村伊賀見(奈良県)に?
    高山寺 国宝 華厳縁起絵巻
     新羅僧の義湘と元暁
     義湘は入唐、元暁は帰国
     国宝の華厳縁起絵巻
    東大寺のその後
    あとがき

    華厳宗の総本山 東大寺
     東大寺は、華厳宗の総本山で、大仏(毘盧遮那仏=びるしゃなぶつ)は、東大寺のシンボルといってよい。その東大寺の開山僧は良弁である。東大寺のホームページを見ると、その歴史が次のように記されている。(注;固有名詞以外の漢数字はアラビア数字に替えた)
     神亀5年(728)、聖武(しょうむ)天皇の皇太子、基(もとい)王の菩提を追修するために建てられた金鐘山寺(きんしょうせんじ)にまで遡ることができます。
     この金鐘山寺において、天平12年(740)のこと、後に東大寺初代別当となる良弁が主宰して、我国で初めて、『華厳経(大方広仏華厳経)』の講読がはじめられました。
     この講義は、新羅で華厳(けごん)経の教えを学んだ大安寺の審祥を講師に招き、『六十華厳』といって、ブッダバドラ(仏駄跋陀羅:359~429)という人が中国語に訳した60巻本の『華厳経』をテキストとして進められました。また注釈書には、中国華厳宗の第三祖で華嚴教学の大成者といわれる法蔵(賢首大師)が著した『探玄記』が用いられたといいます。
     鏡忍・慈訓・圓澄を複師とし、南都の碩学16人を聴衆として、1年に20巻ずつ講義は進められ、3年後の天平14年(742)にようやく初回の講読を終講する事ができました。
     聖武天皇による盧舎那大仏(大仏さま)造顕は、河内国知識寺において天皇が盧舎那仏を拝した事がきっかけであったといわれていますが、『華厳経』の教理が明らかにされて初めて盧舎那大仏造顕という大事業の発願が可能だったのではないでしょうか。
     このようなことを考えると、良弁により主宰されたわが国ではじめての『華厳経』講読の成果が、後の盧舎那大仏(大仏さま)造顕に結実したといっても過言ではありません。
     以上だが、以後、これらの項目を一つひとつ検証していくことになるが、このホームページの東大寺の歴史をみると、「新羅で華厳経の教えを学んだ大安寺の審祥」という文章にのみ、韓半島との関係が感じられるだけで、その他はもっぱら中国との関係が云々されている。

    良弁 相模出自説
     開山僧良弁は持統3年(689)~宝亀4年(773)の人だが、出自は謎に満ちている。というよりは、あいまいに放置されていると言ったほうがいいかも知れない。
     鎌倉時に撰せられたという『元亨釈書』(虎関師錬著・今浜通隆訳・教育社新書)に、「釈良弁は、姓は百済氏、近江の国志賀の里の人であり(或は相模の国ともいう)、その母が観音さまの像に祈ってもうけた子である」と記されている。
     ということで、近江国の百済氏ということになるが、異説として相模国の人かも知れないといっている。『東大寺要録』も相模国人の漆部氏で、義渕僧正の弟子としているらしく、『七大寺年表』は相模国人の百済氏としているそうだ。ところが、若狭神宮寺(福井県小浜市)の縁起は、若狭下根来白石の常満長者の子だという。
     ようするに、良弁の出自は、近江、相模、若狭のいずれかということになる。ということで、まず、相模国の漆部氏説あるいは百済氏説を探ってみることにした。

    あとがき
     東大寺に関心をもったのは、その草創に携わった人たちが、韓半島からの渡来人、もしくはその子孫であるということを知ったからである。東大寺は、日本の代名詞のような、日本そのものであるとの印象が非常に強いが、その実、取材を進めていくにつれ、渡来文化の結晶であるという結論になって、さらに驚いた。
     どうして、そういう結論になるのか。
     日本列島の土着民は、縄文人であるが、紀元前2、3世紀ころから弥生人と称される韓半島からの渡来人が、日本列島に進出し、開拓し、定住しだした。弥生文化の創出である。縄文人は、北へと追いやられ、アイヌ人と称されて生き残り、南へは沖縄であった。
     縄文文化と弥生文化に断絶があるというのが定説だが、どうしたわけか、日本は、縄文文化と弥生文化が連続したものととらえ、日本文化の現像を縄文文化に求めようとするのが大流となった。じつに不思議な精神構造というほかない。そのため、歴史偽造は日常茶飯事となり、真実を覆い隠す煙幕が充満している。
     韓半島との断絶により、先祖を切り捨ててしまうことによって、日本の史観が形成されたといってもよく、そのため、韓半島とのつながりを述べ、真実を追求しようという研究者に対して、生命を担保とする問答無用の脅迫が数々あったと報告されている。しかし、それでも、真実を追究しようという良心の研究者も少なくなく、本書は、そうした良心の書から、宝石のような何かを救い上げたものと自負している。
     良弁相模説を追って、神奈川県まで遠征し、大山寺を探索したが、終日雨に祟られた。その相模大山が雨降山という別称があるのを知って、苦笑せざるを得なかった。
     若狭説は、あまり表面に出ていなかったが、現地を訪問して、若狭出自説を確信するようになった。奈良東大寺の〝お水取り〟の対して、若狭では〝お水送り〟があるのが何よりの状況証拠と確信した。加えて、九州とばかり思っていた「海幸山幸伝承」が若狭の地に存在していたことに驚いた。九州からの神武東征説は虚構で、神武帝は若狭から大和へ南遷したという新しい〝史実〟に接することができたのは何よりの収穫であった。いずれに日にか、〝神武南遷説〟を展開してみたい。
     近江出自説は、良弁に深く関わった人の誰かが近江と深い関係にあったがゆえに出てきた説であろうと思われる。
     東大寺は華厳宗の本山だが、京都は高山寺の国宝〝華厳縁起絵巻〟の主人公が、新羅の元暁と義湘であることに、これまた驚き、日本列島が、韓半島からの弥生文化により形成されたという史観を確かにした。
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