はじめに
第1巻では、河内と大和の大山祇を祭神とする神社を探訪して、陶津耳=賀茂建角身=八咫烏=味耜高彦根命=天稚彦=天日槍=大物主=饒速日=大山咋=大山祇という関係の可能性があることを述べた。
それら神代紀に繋がる神々も、新井白石の「神は人なり」という卓見により、その人(神)格を追うと、イコール(=)の関係になっていく。
どうしてそうなるのか。
筆者が考えるに、一つのものがズタズタに引き裂かれ、引きちぎられて、それぞれがあたかも独立した人(神)格のように著述されたことにより生じた齟齬ではないかと見ている。そのため、それぞれが個々バラバラになり、支離滅裂なって、訳のわからない神代紀になっているのだ。
しかし、その齟齬を拾い出して、修復していけば、不思議にも繋がっていき、同じようなイメージになっていくのだ。換言すれば、点が線となり、面となっていくのだ。
日本の伝統的な思考方法として、「存して論ぜず」という言葉がある。神様が存在しているのは確かであり、空を飛ぶのも、海に潜るのも自由自在だ。そんなバカなことがあるかと、疑問に思わずに、神様の行為だからそのまま信じて議論しないでおこう、という考え方である。
その一つが龍宮神話であり、またその一つが八咫ガラス伝説だ。その主人公というべき神様が日本の帝王になり、日本国が誕生したというのである。つまり、神様が人間に変身したのである。
そんなバカなことがありえずはずはない。進化論にそのような例はない。人間は人間であって、神様は神様だ。神様のような人間と称されても、それはあくまでも人間なのだ。歴史は人間が紡ぐものであり、神様が作り出したものではない。ここに新井白石の「神は人なり」という理性が輝くのである。
個々バラバラにされた人(神)格を修復していくと、冒頭に記した陶津耳=賀茂建角身=八咫烏=味耜高彦根命=天稚彦=天日槍=大物主=饒速日=大山咋=大山祇というイメージになる。
これははたして、何を意味するのか。
筆者の結論は、大和朝廷以前の王朝を意味するもの、という考えである。拙著『アマノヒボコ王朝』(Kindle本第1~8巻)ですでに大和朝廷以前の王朝を詳述した。前記にイコール(=)の人(神)格は、アマノヒボコ王朝以外にも、別の王朝が存在していたという可能性を示唆するものである。
第2巻では、大和・伊予・山城を探索して、大山祇は何者か、を追ってみよう。 2016年2月
百済から渡来した大山祇は武寧王か 2 目次
はじめに
〔14〕 當麻山口(たいまやまぐち)神社 奈良県葛城市當麻1081
河内と大和を結ぶ竜田越と大坂越
聖徳太子の弟・麻呂子が丹後で鬼退治
当麻道沿いに鎮座し往年は相当な賑わい?
〔15〕 高鴨(たかかも)神社 奈良県御所市鴨神1110
鴨族(八咫烏=迦毛大神)発祥の地とされる高鴨
雄略帝の怒りに触れた一言主神は味耜高彦根命
神武帝は三方五湖のある若狭から南遷して大和入り
〔16〕 畝火山口(うねびやまぐち)神社 奈良県橿原市大谷町248
主祭神であった大山祇命を境内社に祀る
大山祇を奉祭した越智氏(清和源氏源頼親の後裔)
〔17〕 香具山(かぐやま) 奈良県橿原市南浦町
日本の万葉仮名・万葉集の源流は韓国の吏読・新羅郷歌
神聖な香具山が洗濯の干し場などにはなり得ない
〔18〕 耳成山口(みみなしやまぐち)神社 奈良県橿原市木原
名勝大和三山耳成山の社殿は荒れ放題
大山祇はイザナギがカグツチを斬ったときに生れた=争闘
〔19〕 大山祇(おおやまづみ)神社 愛媛県今治市大三島町宮浦3327
三島大明神と称し古よりその名顕著で越智河野氏族の氏神
空国は韓国で大山祇は新羅系あるいは伽耶系集団
吾田国の統領大山祇と百済から渡来の大山祇は別人(神)格
幻の大和朝廷論に踊らされているとしかいいようがない
大山祇=島王=武寧王=継体帝なのか?
大山積神は上古百済国に行って仁徳天皇の時代に帰ってきた?
大山祇=饒速日で物部氏の祖
隅田八幡宮所蔵の人物画像鏡は武寧王が継体帝に贈ったもの
余氏王統(武寧王)は温祚系ではなく辰系種族
大山祇と武寧王は辰韓系種族の同族
〔20〕 賀茂御祖(かもみおや)神社(下鴨神社) 京都市左京区下鴨泉川町59
日本国草創期には新羅系の巨大勢力が存在
丹塗矢は大物主=火雷神で、火雷神は饒速日尊の別名
神武帝を先導した塩土老翁は住吉同体=大綿津見神=豊受大神
塩土翁=椎根津と八咫烏は神武帝先導の同じ働き
〔21〕 上賀茂(かみがも)神社 京都市北区上賀茂本山339
珍彦=椎根津彦=倭国造(倭宿禰)は神武帝と同一もしくは兄弟
大山祇の系譜は天皇家形成の外戚
彦火明命は天祖から息津鏡・辺津鏡を賜わる
彦火明命=賀茂別雷神=饒速日=大山祇=賀茂建角身=大己貴=丹波道主=天日槍
あとがき
〔14〕 當麻山口(たいまやまぐち)神社 奈良県葛城市當麻1081
河内と大和を結ぶ竜田越と大坂越
奈良から難波に向かう古道としては、亀の瀬を通る竜田越か、二上山北麓の大坂越(穴虫越)が、最も距離が短くて至便ということだった。この大坂道は、飛鳥時代に拓かれた竹内越より古く、付近には高山火葬墓、穴虫火葬墓などがある。
大坂越の南方に岩屋越があり、大和当麻寺から河内野中寺方面に至る道として利用された。
あとがき
大山祇は何者か、を追って、第1巻では大山祇を祭神とする河内と大和の神社を探索した。この第2巻でも、引き続き大和を探訪し、足を伸ばして伊予(愛媛県)の大山祇神社を探索した。引き返して、山城(京都府)の下賀茂・上賀茂神社を訪ねた。
大和の高鴨神社(奈良県御所市)では、雄略帝と負けず劣らずの威厳を持っていたと想像される一言主神が、アジスキタカヒコネあるいはアマワカヒコと同人(神)格という感触を得た。であるなら、アマヒボコ(天日槍)とも同人(神)ということになり、大和朝廷以前の王朝の存在を想像できた。
アジスキタカヒコネは神武帝を守ったということだが、実際は神武帝の片腕として、神武王朝を支えた重臣であったのではないか。神武王朝は一般にいわれる大和朝廷ではなく、それとは別個の葛城王朝とも呼ばれる王朝であったのだろう。
畝火山口神社(奈良県橿原市)では、土豪越智氏が大山祇を奉祭したことを確認した。越智氏は清和源氏源頼親の後裔とされ、鎌倉時代に大和南部を地盤とする越智党の源流が出来あがったとされ、南北朝時代の南朝方武士の中心勢力であった。
耳成山口神社(橿原市木原)では、本来の祭神が大山祇であり、大山祇は、イザナギ(伊奘諾尊)が剣を抜いてカグツチ(軻遇突智)を斬ったときに生れた子であるということから、権力争奪の争闘を暗示するものであった。
伊予国(愛媛県)の大山祇神社の祭神大山積は、仁徳帝の時代に百済から渡来した神だという。であるなら、神代紀に登場する大山祇とは別人(神)格なのであろうか。4、500年の差があるその人(神)格の存在であるなら、常識的に考えても別人(神)格になろう。
インターネット情報で、武寧王=継体帝という驚天動地の情報に接した。しかし、隅田八幡宮の人物画像は武寧王が継体帝に贈ったものであることが明らかだから、武寧王と継体帝は別人(神)格であることがはっきりする。
明治時代初期の栗田寛著『神祇志料』は、大山積神は百済神だが、大己貴・少彦名神が外国に渡り、後に還ってきたように、大山祇も上古、百済国に行って、仁徳天皇の時代に帰ってきたのだろう。神のことは、凡人の測り知るべきものではないので、論ずることは難しい、と述べている。
こうした論理は、皇国史観の申し子のような説であり、幻の大和朝廷と軌を一にする論理といわねばならない。現代に生きる在日韓国朝鮮人が、過去、日本に居住していて、朝鮮に帰り、また日本にやってきたというのと同じ論理であり、主客転倒もはなはだしい考え方だ。違うのは、在日韓国朝鮮人が神様扱いされていないことだけだ。
とまれ、大山祇神社(愛媛県)の探索では、大山祇=饒速日という結論となり、物部氏の祖ということを突き止めた。先に畝火山口神社の祭神大山祇を土豪越智氏が奉祭したことを述べたが、伊予国の越智郡大三島の大山積神社と大いに関係があることを暗示する。
京都市の賀茂御祖神社(下鴨神社)と上賀茂神社では、シオツチノオジ(塩土翁)が重要な働きをしていることを知ることになった。その塩土老翁は住吉同体=大綿津見神=豊受大神ということが、元伊勢と称される京都府宮津市に鎮座する籠神社の探索で確認されることである。ということになれば、大山祇=和多志大神は住吉同体=大綿津見神という可能性も出てくる。
籠神社の主祭神・彦火明命は、山城の賀茂別雷神と異名同神であるということが、長らく門外不出の極秘情報であったようだが、そうであれば、賀茂別雷=彦火明命=饒速日=大山祇=賀茂建角身=大己貴=丹波道主=天日槍という関係になり、塩土老翁=椎根津彦=珍彦という関係から、神武帝は、九州からの東征ではなく、丹波からの南遷ということになる。
それは、神武帝の新羅系王朝が、応神帝の百済系王朝によって、消された王朝ということになるのである。その新
The Kudara kara toraisita Ooyamatumi wa Buneiou ka (Japanese Edition)
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