0.はじめに
一般に、そして、伝統的には、日本人は食事の前に「いただきます」と手を合わせる民族である。
「いただきます」の「いただき」の部分(=「いただく」が終止形)は謙譲語である。謙譲語とは「行為や状態の主語(主体=S)をその動作や状態が影響を受ける人(客体=O)よりも下げる」、すなわち、「SよりもOを尊敬する」ことを表す敬語の形式である。注1
「いただく」の主語は、話者であるが、客体は何であろうか。私は、客体が、その料理を準備してくれた人(=確かに「話者がいただく」という行為の影響を受ける人は食事を準備した人かもしれない)であるとは規定しにくいと考えている。
というのは、準備した人が身内であれば、「話者<話者の身内」(身内を尊敬する)という図式となるが、身内は下げないといけないので矛盾する。
また、「ます」は、話者と聞き手において「話者<聞き手」(聞き手を尊敬する)という図式で表せ、聞き手の存在が必要である。ところが、「いただきます」は聞き手という人がいなくても、発せられる(少なくとも、心の中で)ので、これも矛盾する。
そこで、「いただきます」の客体を食べ物そのものと考えることができるのではないかと考えている。すると、2つの矛盾が一気に解決する。
(1)a. 「いただき」 → 話者<客体=食べ物
b. 「ます」 → 話者<聞き手=食べ物
すなわち、「いただきます」は客体としての食べ物を話者が敬い、この声を発することで聞き手としての食べ物を話者が敬っている行為に他ならない。
そこで、日本文化における「いただきます」の言葉は、言語学的には食べ物を敬う言葉ということになる。これは、日本文化論の視点からの発想に合致する。
食べ物を上に見るという考えは、食べ物を食する自分と食べ物との間にレベルの差を置く、すなわち、線引きする発想で、それが証拠に「箸」を食べ物との間において、線引きしている。
箸が結界を示す物体となっていると考えられる。自分側が俗なる世界で、食べ物の側が聖なる世界というわけである。それを箸が分けている。注2
「いただきます」という表現に関する言語学的分析が発端となり、日本文化には実に様々な結界が存在するのではないかという仮説を立て、それを検証するのが本稿の目的である。
Nihon Bunka to Kekkai ni kansuru Ichikousatsu (Japanese Edition)
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